013


「最近、結界魔導器(シルトブラスティア)の外でギルドが魔物に襲われたらしいわ」
「えっ!? それで被害は……?」

 人から人へと流れる噂ほど不確かなものはない。けれどネットも普及していなければテレビもないテルカ・リュミレースにとって人から人へ伝わる情報こそが唯一のニュース。特に、現状読み書きが全くできないわたしにとっては耳で聞く情報というのは本当にありがたかった。
 女将さんとお客さんの話にそっと耳を傾けながらわたしは静かにテーブルを拭く。ずっと裏方ばかり手伝っていた仕事も最近は少しずつ表方にも出るようになり顔見知りも以前よりは増えた。今、女将さんと話しているリリスさんもその一人でいつもわたしにも気さくに声をかけてくれるとても優しい女性なのだけれどその表情は珍しく曇っている。ギルドというのが何なのかは分からないが、とにかくあまりいい情報ではないのは女将さんたちの表情でなんとなく分かった。

「……全滅ですって。しかもその中の一人は骨すら見つかってないって」
「そりゃあ怖いねえ」

 全滅。誰も、助からなかった。
 嫌でも脳裏にあの時の記憶が蘇る。真っ赤に染まった腕も魔物の生々しい匂いも全身に駆け巡る恐怖も、なかなかあの感覚は消えてくれない。早く忘れてしまいたいと思うのに今でもたまに夢に見る。出口の見えない森の中で必死に魔物から逃げる夢を。
 いつまで経っても忘れられない記憶はどこまでわたしを縛り付けるのだろう。

「――――ちゃん? アズサちゃん?」
 
 不意に自分の名前を呼ばれてハッと意識を戻す。知らない間にテーブルを拭いていた手を止めてしまっていたようで、カウンターに座っていたリリスさんが不安げにわたしを見つめていた。そのすぐ近くには眉を潜める女将さんの姿。どうやら気づかない内に表情が暗くなってしまっていたらしい。わたしは意識的に口角を持ち上げてにこりと笑みを浮かべる。

「……はい、なんでしょう?」
「アズサちゃんなんだか顔色が悪いけど……大丈夫? 具合悪い?」

 無理しちゃ駄目よ。
 困ったように眉を下げて心配してくれるリリスさんの心遣いが純粋に嬉しい。下町の人たちは本当に人柄が良すぎる。見ず知らずのわたしを留めてくれてこうして気にかけてくれるのだから。その中にはもしかしたら"記憶喪失"からくる同情も含まれているのかもしれないけれど。
 わたしは慌てて首を横に振った。

「そんなことないです、少し考え事してただけなので気にしないでください」
「そう? 本当に大丈夫?」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 その後、注文していたコーヒーを飲み干したリリスさんは代金を支払い店を出て行った。からんころんと木製のベルが鳴り響く。他にお客さんもいなくて静寂に包まれる店内。黙々とリリスさんの食器を片付けていると不意に女将さんに名前を呼ばれて顔を上げた。女将さんは苦虫を噛み潰したような複雑な表情をしていた。

「ごめんアズサ、悪気はないんだよ」
「……大丈夫です。むしろ気を使わせてしまってすみません」

 リリスさんはわたしが結界の外で魔物に襲われたことを知らない。あまり周りにはわたしの事情を言わないで欲しいと女将さんたちにお願いしたのだ。自分の素性を隠しながらあの時の状況を上手く説明できる自信もなかったし、話したところで不審に思われるのは明確だった。今、わたしは下町の人たちからは"帝都に用事があってやってきたハンクスさんの遠い親戚"と認知されている。”どこからやってきたかも分からない身元不明の記憶喪失の少女”よりはずっとましだろうと思ったから。
 咄嗟に浮かべた笑みが情けないものだったのだろう。女将さんの表情はますます苦いものになってしまった。
 もちろん、リリスさんに悪意がないのは分かっている。本当に何気ない世間話だったのだろう。むしろ過敏に反応してしまうわたしが悪い。もう少し図太い神経を持ち合わせていれば良かったのだけれど……きゅっと眉間に皺が寄せながらわたしは片づけを再開する。

(例えば……)

 本当に、例えばの話だけど……もし、わたしにも戦う力があればこの気弱な心も変えられるのだろうか。弱肉強食の世界に抗う力を手に入れられたなら。
 ふと、わたしは自分の手のひらを見つめる。ほんの少しのささくれとペンだこぐらいしかないちっぽけな手。

(でも、わたしにそんなことできるの?)

 魔物と対峙するということは少なからず命のやり取りをするということ。この手を真っ赤に染める覚悟が、自分にはあるのだろうか。魔物に立ち向かうということは……そういうことだ。もちろん、そんな機会がきてほしいとはこれっぽっちも思わないが。それにその戦う術だってどうやって身に着けたらいい? 下町で戦う術をもっているのはおそらくユーリさんだけだ。でも物語の主人公であるユーリさんと接触するのは出来るだけ避けたい。そもそもわたしに戦う才能なんてあるのだろうか……? 運動神経だって特別良いというわけではないのに。

(まだまだ考えないといけないことがいっぱいだ)
「あー……ごめんよ、アズサ」

 悶々としながらシンクで洗い物をしていると厨房から女将さんの声が聞こえてくる。申し訳なさそうな顔をした女将さんの手には空っぽになった牛乳瓶が抱えられていた。

「ちょっと買い物頼まれてくれるかい?」

 毎日毎日悩みが尽きることはないけれど、今はこの生活を精一杯生きることしかできない。せめてわたしを気にかけてくれるハンクスさんや女将さんたちの前では不安な顔を見せないようにしなければ。
 空になった牛乳瓶を受け取って「大丈夫ですよ」とわたしは笑った。


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