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 ユーリさんが聖核(アパティア)を斬ったとき、声が聞こえた。あの時は気のせいかと思っていたけどどうやらカロルくんたちにもしっかり聞こえていたらしい。結局、あれは誰の声だったのだろうか。答えは見つからないまま、わたしたちはヘラクレスから脱出するため動力室から外を目指した。
 ずっと艦内に閉じこもっていた所為か久々の外の空気がとてもおいしく感じる。潮の香りを含んだ新鮮な空気を肺いっぱいに取り込んでいるとなにやら下の方が騒がしい。真下を覗き込んでみるとヘラクレスのすぐ近くに騎士団の船があった。さっきまで体当たりを繰り返していたのだから当然と言えば当然だ。よく見ると甲板では騎士たちが忙しなく駆け回り、声を張り上げている。どうしたんだろうと思っているとわたしの隣にパティちゃんがひょっこりと現れて身を乗り出す。かなり身を乗り出して下を覗き込むものだから落っこちてしまうんじゃないかと内心ハラハラした。

「あーあれはまずいの。あの傾き方は浸水しとる。もたもたしてると沈むのじゃ」
「えっ、そうなの? 上から見てるからよく分からないけど……」
「甲板にある積荷が少しずつ前方に移動しておる。船が傾いてる何よりの証拠じゃ」
「あ……本当だ」
「あそこでなんか叫んでるの、フレンじゃないの?」

 レイヴンさんが指さした方向を見てみると、わたしたちから少し離れた位置にある船に一際目を引く金髪の騎士がいる。先ほどから必死に指示を送っているようだった。確かにあれはフレンさんだ。よく見ると真下にある船よりもひどい傾き方をしている。海に沈む前に騎士団を避難させようとしているのだろう。

(フレンさん、大丈夫かな……)
「ありゃ抜け出すって訳にはいきそうにねえな。フレンにゃ悪いがこのままいくか」
「いいの? 後で文句言われるんじゃない?」
「アイツの小言には慣れてるよ。ジュディ、頼む」

 一秒でも早くエステルちゃんを助けたい。まんまとアレクセイの罠にはまってしまったことで既に大幅に時間をロスしているのだ。フレンさんには申し訳ないけれど、ユーリさんの言う通りこのまま向かうのが最善だろう。リタちゃんたちも反対する様子は見られなかった。彼の言葉に頷いたジュディスさんは視線を上に向ける。

「バウル!」

 雲ひとつない青空の彼方。ぽつんと黒い影が現れたかと思うとその姿はみるみるうちに大きくなっていき巨大な鯨のような形になった。立派な尾びれを動かして優美に上空を旋回しながらやってきたバウルはヘラクレスに降り立つと喉を鳴らす。ジュディスさんはバウルを見上げ僅かに口元を緩めるとこくりと頷いた。

「うん……ありがとう。みんな乗って」
「追いかけっこもここで終わりにするぞ」

 わたしたちがフィエルティア号に乗り込むとバウルは一気に空を上昇した。頭上に重たいものを乗せられたときのような、ぐっと足元が地面に吸い付く感覚。刹那、強い負荷に反応してなのかザギに蹴られた脇腹がずきずきと痛み始めた。あんなに激しくユーリさんに吹っ飛ばされてボロボロだったというのに。彼のユーリさんに対する執念は本当に恐ろしい。わたしはぐっと眉間に皺を寄せながら周りに気付かれないようにこっそりと脇腹を手で押さえた。
 バウルは上空をまっすぐ飛んで帝都へと向かう。だんだんと見えてくる見覚えのある街並み。まさかこんな形で帝都に戻ることになるなんて想像もしていなかった。もはや懐かしさすら感じてしまう、わたしにとって始まりの街。あれ? とカロルくんが声を上げたのはそんな帝都の街並みがくっきりと見えるようになった頃のことだった。目を凝らしていたレイヴンさんが驚いたように瞳を丸くする。

「おいおい! 結界がないぜ」
「えっ」

 レイヴンさんの言葉にわたしもじいっと目を凝らしてみてみると確かに帝都を守る結界がなくなっていた。つまり、今の帝都は簡単に魔物の侵入を許してしまうような無防備な状態。帝都に住んでいる人たちはこの異変に気が付いているのだろうか。そもそもどうしてそんな危険な事態になっているのだろうか。
 答えは考えなくてもなんとなく分かる。

「アレクセイの野郎の仕業か」
「したい放題じゃの……アレクセイ……」

 おそらくエステルちゃんの力を利用して結界魔導器(シルトブラスティア)を使い物にならなくしたのだろう。また彼女の気持ちを無視して勝手に力を利用して。きゅっと眉間に皺が寄った。
 帝都にアレクセイとエステルちゃんがいるのは分かっている。しかし、帝都は大きな街だ。あてもなく探し回るのは効率が悪すぎる。どうやって彼女を探すか悩むわたしたちにジュディスさんは確信を持った強い口調で言った。アレクセイがエステルちゃんと聖核(アパティア)を使って何かしようとしているのなら必ずエアルの乱れが起きる。バウルならきっと見つけることができる、と。

「……見つけた」
「あそこ!」

 その姿を視界に捉えた瞬間、全身の血が湧き上がるような錯覚を覚えた。城の頂上部に立つアレクセイ。傍には球体に囚われたままぐったりとするエステルちゃんがいる。

「エステルちゃん……!」
「ジュディ、近づけてくれ!」

 エステルちゃんに近づけば近づく程、風が強く吹き荒れた。これも彼女の力の影響なのだろうか。少しずつ近づいていく船の中でわたしたちは必死にエステルちゃんに向かって声をかけ続けた。やがて閉じたままだった彼女の瞼がゆっくりと開く。わたしたちの姿を見つけた翡翠色の瞳は涙で滲んでいた。

「エステル!」

 ユーリさんはフィエルティア号から身を乗り出す。その時、エステルちゃんを捕えていた球体が光り出した。苦しそうに胸を抑え叫ぶエステルちゃん。わたしはハッとしてアレクセイを見た。彼女の力を行使する彼の口元は嬉々として歪んでいる。ぷつん、と頭の中の何かが切れたような音がした。
 一瞬、何が起きたのか自分自身でも分からなかった。気が付いたら双剣の柄に手が伸びていて慌てて反対の手で抑え込む。胸元で揺れるペンダントは真っ赤に燃えていた。今、気を緩めれば彼女はわたしの意思なんて簡単に乗っ取ってしまうだろう。バクティオン神殿の時のように。そしたら彼女は――。

「てめぇ、アレクセイ!」
「いや! 力が抑えられない! 怖い!」
「弱気になるな! エステル! 今助けてやる!」

 そう言ったユーリさんはフィエルティア号から飛び降りた。けれど、伸ばした手はエステルちゃんに届くことはなく無情にも彼女の力によって弾かれる。身体ごと吹き飛ばされて落っこちてしまうんじゃないかと肝が冷えたが、なんとか船の一部に掴まっているのが見えたのでホッと息を吐いた。
 柄を持った手が震える。彼女の意識がわたしの前に出ようとしているのだ。ガンガンと頭を揺さぶられているような激しい眩暈に襲われる。それでも今の彼女に"躰"を明け渡すわけにはいかないと本能が叫んでいた。ぐっと手のひらに力を込める。胸のペンダントは抵抗するようにちかちかと瞬きを繰り返していた。そんな時、微かに震えるエステルちゃんの声が耳に届く。

「これ以上……誰かを傷つける前に……。お願い……」
(エステルちゃん……?)

 ――殺して。
 それは心優しい彼女が願ったあまりにも悲しい祈りだった。
 エステルちゃんの悲鳴が響き渡る。再びアレクセイが彼女の力を使ったのだ。さっきとは比べ物にならない程の風が巻き起こりフィエルティア号が大きく揺れる。その場に立っているのもやっとの中で突然ぐらっと足元が傾いた。バウルが風の勢いに耐え切れなかったのだ。バウルごと吹き飛ばされた船の中でわたしは甲板に身体を叩きつける。全身に走った衝撃に息ができなかった。僅かに動いた顔を上げるとどんどん小さくなっていくエステルちゃんの姿。

「エステル!!」

 やっと見つけたのに。今度こそ助けられると思ったのに。
 身体に力が入らない。次第に視界が霞んでいく。遠のいていく意識の中でユーリさんがエステルちゃんを呼ぶ声が聞こえた。


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