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 どぼん、と海に落ちたような感覚だった。
 もしこれが現実だったのなら息苦しくて仕方ないはずなのになぜだか胸は苦しくない。それどころか居心地の良さすらある。柔らかい毛布に包まれているような温かいぬくもり。安心感を覚えているのはこの感覚が初めてではなかったからだ。わたしはゆっくりと瞼を持ち上げる。吐き出した空気が泡となって唇の端から溢れた。
 深く暗い海の中、不思議なことにわたしと彼女の身体だけが仄かに光を帯びている。前髪から覗く凛としたココアブラウンの瞳がこちらを静かに見つめていた。唇の形も瞳の色も何もかもがおなじ。違うと言えば煌びやかな装飾のついた服と髪型ぐらいだろうか。
 ――わたしと同じ"魂"の存在。アズサが眦をつり上げながら唇を開いた。

「どうして、変わってくれなかったの?」

 帝都でアレクセイを見つけた時、アズサはわたしの前に出ようとした。無意識に双剣に手が伸びていたのはおそらく彼女の意思。けれど、わたしはそれを拒んだ。"躰"を渡さなかった。そのことを彼女は言っているのだろう。
 アズサが口を開くとゴポリと大量の泡が溢れた。大きさの異なるそれは海面を目指してゆらゆらと上昇していく。

「やっと見つけたのに! わたしの大切な家族を殺した人間をやっと……!」

 そこまで言うとアズサは視線を下に落として口を閉ざした。前髪に隠れて表情ははっきりと見ることはできない。けれどわたしの立っている場所からでも唇を噛みしめているのは分かった。強く握りしめられた手のひらが小刻みに揺れている。

「…………どうして止めるの?」

 あんなに感情を昂らせていたのだからもっと怒りを爆発させるのだと思っていた。けれど最後に彼女が放った言葉は今にも消え入りそうなほどに小さくて、わたしは密かに目を見張る。
 勝手な想像でこちらの世界のアズサは強いんだと思っていた。心も身体も。あのドン・ホワイトホースに一目置かれていて、ライラちゃんのような小さい子にも慕われていて……おまけに武術にも長けている。それに比べてわたしは普通だ。身体能力が高いわけでもなく、聡明なわけでもない。どこにでもいるような普通の人間。共通点を見つける方が難しいとさえ思っていた。
 ――でも、目の前で視線を落とす彼女の弱々しさや脆さには心当たりがある。

「…………負の感情は負の連鎖しか呼ばない」

 わたしの放った言葉にアズサは弾かれたように顔を上げた。不安の滲んだ瞳に映る微かに微笑む自分の姿。
なかなか他人に本音を吐き出せないところ、なんでも自分で抱え込んでしまおうとするところは……とても自分に良く似ている。

「あなたが自分で言ったんだよ?」

 それはジュディスさんがバウルと共に暗闇の中に消えて行ってしまった日、フィエルティア号でわたしがユーリさんに放った言葉。あれはわたしではなく彼女が紡いだものだ。思い入れがないとは考えにくい。
 わたしは目を見開いたまま動かないアズサのもとにゆっくりと近づく。向かい合うように立つと彼女の強く握りしめられた手に触れた。指先に伝わるあたたかさがこれは現実なんじゃないかと錯覚させる。なんてリアルな夢なんだろうか。

「…………テオが、よく言ってたの」

 僅かに解かれた手にするりと指を絡める。同じ大きさの手のひらにはくっきりと爪の跡が残っていた。

「あなたの仲間?」
「うん……。演奏者で、ギターがとても上手だった」

 そう言うと俯き加減だったアズサの表情はほんの少しだけ和らぐ。他にはどんな人がいたの? と尋ねると彼女はぽつぽつとギルドのメンバーについて話し始めた。大道芸ギルドと言うだけあってパフォーマーがたくさんいたらしい。ギルドの団長兼ジャグラーのカイト、カイトの妻であり歌姫のリリー、二人の息子のトト。装飾職人のウィルに見習いのジョン、服飾担当兼踊り手のアネッサ、演奏者のテオ、そして剣舞のアズサ。話に聞いた通り、両手で数えられる程しかいない少数精鋭のギルドらしい。まるで凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)みたいだ。アズサは彼らを家族と言っていたが実際に血の繋がりはないのだという。けれど帝国騎士だった両親を人魔戦争で亡くし身寄りがどこにもなかった自分にとっては家族同然だった、と僅かに口角を持ち上げた。その穏やかな表情からは仲間への信頼が窺える。本当に、蒼の迷宮が大好きだったのだろう。

「あの日、わたしたちは帝都での公演の為に森の中で練習をしていた。そしたらテオに森の外れに呼び出されたの。それで……」

 そこでアズサは一度口を閉ざした。静寂が周りを包み込む。わたしは彼女の手を握ったまま、言葉の続きを静かに待った。

「告白、されて……」

 予想外の展開にわたしは息を呑む。そして同時に顔の血の気が引いていくのを感じた。

「わたしびっくりして固まっちゃたの。テオとはわたしが蒼の迷宮に入った時からずっと一緒にいて、今まで彼をそういう目で見たことがなかったから。テオは今すぐに返事はいらないからって言ってみんなのところに戻っていった。わたし、どうしたらいいのか分からなくてしばらくその場から動けなかったの」

 それが……生きてるみんなを見た最後だった。
 アズサの話を聞いていて不意に脳裏に蘇ったのはわたしの知らない記憶。真っ赤に染まった双剣、風にはためく瑠璃色のマント、力なく地面に転がる腕。あれはアズサの記憶だったのだ。彼女の"魂"が消滅する前の最後の記憶。

「前触れなんて全然なかった。森に流れていた空気が突然変わったの。急に胸が苦しくなって立っていられなくなった。まるで心臓を鷲掴みされてるみたいな感覚で、呼吸が出来てるのかも分からなくて。とにかく嫌な予感しかしなかった。ようやく動けるようになって急いでみんなのところに戻ったけど、その時にはもう……」

 酷い有様だったという。大量の血だまりの中で無造作に転がる仲間の姿。瞳の輝きは失われ、身体のあちこちを乱暴に食いちぎられていて。中には身体の一部が亡くなっている人もいたという。彼らは抵抗もできないままに魔物に襲われた。アレクセイの自分勝手な実験の為に利用されたのだ。
 アズサは瞳を伏せる。

「狂暴化した魔物はわたしにも襲いかかってきて、わたしは無我夢中で戦った。馬鹿だよね、所詮あの場にいた魔物たちもアレクセイの都合のいい実験台に過ぎなかったのに――わたしは慣れない上級魔術を使って力尽きた」

 そして、"魂"が消滅する直前に彼女は強く願ってしまった。自分が家族のように大切にしていた仲間を殺した犯人を知りたいと。その結果わたしという不安定な存在が生まれた。

「もし、わたしがあの場でテオに返事をしていたら未来は変わっていたのかもしれない。もっと早くみんなのところに戻っていれば助けられたかもしれない。わたしが犯人を見つけたいと強く願っていなかったら、あなたを巻き込むことはなかったかもしれない」
(アズサ……)
「全部わたしの所為なの、わたしが悪いのっ」
「……それは違うよ」
「違わないっ!」

 握っていた手が振りほどかれる。髪を振り乱し顔を上げたアズサの目には涙が浮かんでいた。
 頭の中ではきっと彼女も理解しているはずだ。アレクセイがエアルを暴発させた時点で誰も身動きが取れなかった。彼女がその場にいたところでテオさんたちと同じ運命を辿るしかなかったのだと。悪いのは全てアレクセイだ。アズサもまた被害者の一人でしかない。それでも彼女は自分を責めずにはいられなかったのだろう。大切な仲間を守れなかった悲しみを己の使命に変えて、"魂"の欠片を武醒魔導器(ボーディブラスティア)に宿してまで犯人を捜し続けていたのだ。

「……でも、アレクセイを殺してもあなたの家族は帰ってこない」
「そんなこと、分かってる」
「もし本当にあなたがアレクセイを殺してしまったら……テオさんはきっと悲しむと思うよ」

 アズサがやろうとしているのは言わば復讐だ。唐突に命を奪われた家族の敵討ち。
 しかし、憎しみのままにアレクセイを殺してしまえば今度はアレクセイを慕っていた誰かがアズサに同じ感情を抱くだろう。そしたら彼女はずっと誰かに恨まれ憎まれながら生き続けなければいけない。きっとそれは孤独で険しい道だ。人知れずその道を受け入れて己の信念を曲げなかった人をわたしは一人知っているが、彼女にも同じ道は辿ってほしくはなかった。感情は巡り巡って必ず自分に帰ってくるから。テオさんはそう言ったかったんじゃないだろうか。

「負の感情に囚われたまま生きることを絶対にあなたの仲間は望まない」

 だからもう、全部ひとりで抱え込まないで。
 わたしは微笑みながら腕を広げる。アズサはしばらくの間呆然としていたけれど、やがて目尻に溜めていた涙をぽろぽろと流し始めた。みるみる内に顔が歪んでいく。気づけばわんわんと子どものように泣きじゃくるアズサが胸の中にいた。わたしは彼女の背中に手を回して何度も優しく撫でる。

「みんなに会いたい! テオに会いたい! テオに、好きって伝えたい……っ!」

 アズサの胸の内を聞いて目頭が熱くなった。"魂"を失ってもずっと後悔し続けてきたのだろう。思いは通じ合っていたはずなのに、そう思うと涙が止まらなかった。わたしは手のひらに力を込めてアズサを引き寄せる。背中に回った手がぎゅっと服の裾を掴んだ。

「アレクセイのことはわたしたちに任せて。必ずなんとかするから」

 これ以上アレクセイの思い通りにはさせない。アズサの為にも、エステルちゃんの為にも、必ず彼の思惑を止めてみせる。
 ありがとう、と耳朶に触れた微かな声。強く抱きしめ合ったわたしたちは溶け合っていくように海の底へ沈んでいった。


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