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 瞼にほんのりと光を感じてゆっくりと目を開ける。視界いっぱいに広がる見慣れない天井。どうやらわたしはベッドの上にいるらしい。こうやって目を覚ますのは一体何度目になるだろうか。
 ぼんやりと天井を見つめていたわたしの視界に黒い影が現れる。ゆらりと揺れる尻尾。翡翠の隻眼が静かにこちらを見つめていた。

「ラピード……?」

 普段あんなに激しい戦闘をこなしていても整っているはずの毛並みがぐちゃぐちゃだ。どうしてなんだろう、とラピードの瞳を見つめ返しているとまどろんでいた思考が少しずつ蘇ってくる。最後に覚えているのはエステルちゃんの悲しげな表情。
 そうだ、わたしたちアレクセイに飛ばされて……早くエステルちゃんを助けに行かないとっ!
 わたしはベッドから飛び起きようとした、が――。

「いっ……!?」

 身体を動かした途端、容赦なく襲う激痛。なんだこれ、意識を失う前には確実になかった痛みだ。ずっと寝てた代償とかのレベルではない。あまりの痛さにわたしは身体を抱え込んで悶絶する。ラピードがいきなり動くからだと言わんばかりに鼻を鳴らした。

「まだ、大人しくしてなさい……。アズサが一番重傷者なんだから」

 リタちゃんの声だ。だけどいつものような元気がない。辛うじて動かせる首を横に向けるとそこにはわたしと同じベッドで横になるリタちゃんがいた。前髪から覗く目元には明らかに疲弊の色が窺える。

「リタ、ちゃん……?」
「あ、アズサ良かった。目が覚めたんだね……」

 視線を遠くに向けると反対側のベッドで眠っていたカロルくんがのろのろと上体を起こした。その動作は酷くゆっくりでわたしは心の中で首を捻る。どういうことなんだろう。リタちゃんも、カロルくんも、ボロボロだ。わたしが意識を失っている間に何があったんだろう。愕然としているとカツンと靴の音が聞こえてハッと意識を戻す。わたしの顔を覗き込むジュディスさんの腕には痛々しい包帯が巻かれていた。

「状況は分かってる?」

 彼女の問いかけに静かに首を横に振る。そこでわたしは初めて気がついた。部屋の隅で膝を抱えるパティちゃんも、その隣で壁に寄りかかるレイヴンさんも、みんな傷だらけだ。わたしはおそるおそる自分の身体を見下ろす。腕も、脚も、頭に手を伸ばせば幾重にも包帯が巻かれていた。

「なにが、あったんですか……?」

 あの後、驚くことにわたしたちはカプワ・ノール近くまで吹き飛ばされてしまったらしい。ザーフィアスとカプワ・ノールは決して近い距離ではない。エステルちゃんの力がそれだけ強かったということだ。バウルは飛ばされた勢いのままに地面に叩きつけられ、わたしたちもフィエルティア号から放り投げだされたのだと言う。目覚めの激痛はそれが原因だったのだろう。わたしだけが意識を取り戻せずにレイヴンさんによって運び込まれたらしい。レイヴンさんだってきっとあちこち傷ついていたはずなのに。すみません、と頭を下げるとレイヴンさんはへらりと笑った。

「いいのいいの。アズサちゃんの怪我は俺様の所為のようなものだし……これくらいさせてよ」
「それは、」

 違う、と言いかけた言葉をわたしは呑み込む。悪いのはアレクセイだ、レイヴンさんの所為ではない。そう言ってもきっとレイヴンさんは納得しないだろう。レイヴンさんがアレクセイの指示でわたしとエステルちゃんを連れ去ったのは紛れもない事実だから。たとえそこに彼の意思がなかったとしても、だ。言い合いをしたところで何の解決にもならない。わたしは困ったように笑うレイヴンさんを見て静かに口角を持ち上げた。

「私たちが今いるのはティグルの家なの」
「ティグルさんって、ポリーくんの父親の……?」

 そこまで言ったところで、タイミングよく奥の部屋から一人の男の人が現れた。落ち着いたえんじ色の髪と瞳には覚えがある。初めてカプワ・ノールを訪れた時、まだラゴウが街を圧政していた頃にリブガロ捕獲を命じられていた人だ。ぱちりと視線が絡み合うとティグルさんはすたすたとわたしのところまで歩み寄ってくる。

「あんたがうちの子を最初に見つけてくれた人だって聞いた。ずっとお礼が言いたかったんだ。ありがとう」
「いえ、わたしはそんな大したことは……。えっと、ポリーくんは元気ですか?」
「ああ。後でポリーにも会ってくれないか。あんただけ全然起きないから心配してたんだ」
「……ぜひ、会わせてください」

 ポリーくんに会うのはラゴウの屋敷で別れて以来だ。ポリーくんがまだわたしのことを覚えていてくれていたことにじんわりと胸が暖かくなるのを感じているとガチャリと扉が開く音がして視線を向ける。目を引く艶やかな紫黒の髪。ユーリさんは情報収集の為に街に出ているのだとジュディスさんからは聞いていたけど、実際に彼の姿を見るとなんだかホッとする。わたしが最後に覚えているのはフィエルティア号から落っこちる寸前のユーリさんだったから。
 ユーリさんと目が合うと切れ長の瞳がすっと細くなって目尻に優しさが滲む。けれど、それは一瞬のことで表情はすぐに硬いものに変わった。なにかあったのだろうか。立ち上がったパティちゃんは小走りに彼の元に駆け寄る。

「ユーリ、街の様子はどうだったのじゃ?」
「……かなりまずいことになってる」

 ヘラクレスの砲弾はなんとかザーフィアスを免れた――が、その代わりにエフミドの丘に直撃した。ユーリさんが小耳に挟んだ話ではエフミドの丘の向こうには巨大な穴が空いているらしい。周りは凄まじい熱で近づくこともできないんだとか。新しい執政官たちも困惑しているのだという。

「そんなことになっていたんですね……」
「……よりによってえらいとこに当たっちまったもんだねえ」
「街に当たらなかったのがせめてもの救いね」

 カプワ・ノールからザーフィアスに向かうには陸路の場合だとエフミドの丘を通るしか方法がない。それなら船で迂回すればいいとリタちゃんが提案したが、港の船は騎士団がほとんど持っていってしまったというティグルさんの情報によって消え去ってしまった。フィエルティア号も大破していて直すにも時間がかかるという。バウルも怪我をしてしまっていて満足に動ける状態ではないらしい。一刻も早くエステルちゃんを助けに行きたいのに。わたしはシーツを握りしめた。
 長い沈黙が続く。八方塞がりの状況で誰もが口を噤む中、思わぬ方向から助け船が現れた。

「……方法がないこともない。あまりお勧めできないがね」

***

 ティグルさんが教えてくれたのはエフミドの丘の北に位置する海岸を渡ると言うもの。船もないのに海岸? と不思議に思ったが、今の時季は流氷がたくさん流れ着いて道として通ることができるらしい。しかし、相手は自然だ。あくまでも運が良ければの話で無駄足になってしまう可能性だって十分にある。それでも今のわたしたちにとっては唯一の手段だったから選ばない理由などなかった。
 それがここ――ゾフェル氷刃海。ティグルさんの言っていた通り、辺りにはたくさんの流氷が流れ着き道を作っていた。

「ううう、ううううう、寒い寒い寒い」
「おっさん、ウザイ」
「年寄りは体温高くないのよ。あー砂漠の暑さが懐かしいわ」

 わたしは寒さで震えるレイヴンさんを見ながらくすりと笑みを零す。確かに砂漠の時のレイヴンさんとはえらい違いだ。かくいうわたしも寒さに耐えきれる自信がなかったのでリタちゃんからマントを借りている。一枚布を被っているだけでも暖かさが格段に違うのだ。わたしはマントを手繰り寄せ白い息を吐きだす。真っ白な空気はしんしんと降り積もる雪に混じって消えた。

「アズサ姐」
「ん?」

 控えめにマントの裾を引っ張られ、わたしは肩越しに振り返る。こちらを見上げる不安を滲ませた瞳。パティちゃんは一瞬だけ迷うように視線を泳がせた後、唇を開いた。

「……本当に身体は大丈夫なのか? 無理しとらんか?」

 無理をしていない――と言えば嘘になる。グミである程度回復できたとは言っても、傷は完全には癒えていない。歩く程度なら問題はないが、走ったり戦ったりは満足にできないだろう。おまけに氷の地面は滑りやすく身体もいつもより強張っている。ユーリさんからも戦いの参加を禁じられてしまった。これ以上、余計な心配はかけたくない。エステルちゃんを助けるのだ、必ず……アズサの為にも。
 わたしは瞳を細めてゆるりと笑う。

「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」


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