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「しかしすげぇところだな。不思議っつーか不気味っつーか。氷から剣が生えてんぞ」

 道のように連なる氷の上を進みながらユーリさんが呟く。確かにそれはこの地に足を踏み入れたから疑問に思っていた。ぐるりと周囲を見渡せば剝き出しの剣が何本も氷に突き刺さっている。まるでホラースポットみたいで気味が悪い。

「昔の海賊と帝国が争った名残なのじゃ」
「えっ、こんな場所で……?」
「ん? そ、そう言や、なんかそんなのき、聞いたことあるな」

 だとしたらかなりの人がこの海に沈んでいるのではないだろうか。ますますホラースポットじみてきてわたしは青ざめた。ふと脳裏にはアーセルム号の時の記憶が蘇る。あんな体験はもう二度としたくない。冷気とは違う寒気が背筋を襲う。

「刃のように冷たいから氷刃海。……と思ってたけど、こういうことなのね」
「刃のように冷たいってのも、間違ってないと思うなあ。ううううさぶさぶ」

 とにかくこんな薄気味悪い場所はさっさと抜けてしまうのが一番だ。次の氷へ移ろうと足を動かす。するといつものように寄り添ってくれていたラピードが突然吠え出した。どうしたの? と声をかけるより前に――海中に巨大な黒い影が映る。ひっ、とわたしは思わず喉を引きつらせた。ユーリさんたちも突如として足元に現れた黒い影に息を呑む。

「大きい……まさか始祖の隷長(エンテレケイア)!?」
「……違うわね。知性が感じられないもの」
「ってことは魔物でしょ!? 襲ってこられたら大変だよ」
「バイトジョーなのじゃ。背骨がガチガチのピカピカで、とっても丈夫な体の魔物なのじゃ」
(ガチガチのピカピカ……?)

 パティちゃんの言う"ガチガチのピカピカ"がわたしの想像しているものに近いかどうかは分からなかったが、とにかく硬い魔物なんだろうということは分かった。バイトジョーは時折、足元に現れたかと思うとゆらゆらと海中を漂って再び姿を消すのを繰り返している。もしかしてわたしたちのことを餌として狙っているのだろうか。それとも流氷を壊してわたしたちたちを極寒の海に沈めようとしているとか……。ついつい思考は悪い方向にばかりいってしまう。さあっと血の気が引いていくのを感じた。
 怖気づいて足が止まってしまったわたしとは対照的にユーリさんは気にする素振りも見せずどんどん進んでいく。本当に進んで大丈夫なのだろうか。オロオロするわたしにユーリさんは肩越しに振り返ってため息交じりに言った。

「ほっときゃ襲ってこないだろ。相手にすんなって。いくぞ」
「はっ、はい」

 鈍色の空から降る真っ白な雪。氷の上にはうっすらと雪が積もっていて気を付けないと転んでしまいそうだった。
バイトジョーは相変わらずわたしたちの前に現れては邪魔をしてくる。まるで狙っていたかのようにわたしたちが進もうと思っていた氷の道を体当たりで砕いて沈めていくのだ。他にも道があるから立ち止まることなく進めていけるものの、なんだか誘導されているみたいで少し気味が悪い。ジュディスさんはあの魔物には知性を感じられないとは言っていたけど……それなら偶然、なのだろうか。流石にジュディスさんやユーリさんも違和感を抱き始めたみたいで眉間に皺を寄せている。

「変ね。あの魔物、邪魔する時としない時があるみたい」
「ああ、なんか気に入らないな」
「そうですね……」

 ただの思い過ごしだと思いたい。だけど、ゾフェル氷刃海に入ってからずっと付き纏われてることを考えるとつい不安になってしまう。本当にバイトジョーはわたしたちを襲うつもりはないのだろうかと。

「こんだけ分厚い氷の上にいれば、襲われる心配はないと思うけど……」
「襲ってきたら、返り討ちじゃ。どんと来いなのじゃ」
「でも今、あんなのと真正面からやり合うのは、できるだけ勘弁だな」

 足場も視界も決して良いとは言えない。ましてやユーリさんたちの傷も治りきっていないのだ。出来るだけ戦闘は避けたいのが本音なのだろう。ユーリさんの意見には賛成だった。わたしは何度も首を縦に振る。

「早いとこ、地面の上に戻りたいわね」
「それと、暖かいところにね。はーっくしょい!」

***

 相変わらずバイトジョーに邪魔されながらもわたしたちは氷の道を進んでいく。ツルツルの路面は思っていた以上に厄介で何回も足を滑らせて転びそうになった。そのたびに傍にいたラピードがわたしの身体を支えてくれてなんとか氷の地面とこんにちはする事態は避けられているのだが。

「――ねえ、ラピード」
「ワフ?」
「わたしのことを助けてくれるのはすごい嬉しいんだけど……できたらレイヴンさんたちのことも同じようにしてくれたら嬉しいなあ、って」

 そっとラピードに耳打ちをしていた最中にもレイヴンさんが足を滑らせて盛大な尻もちをつく。その少し前にはカロルくんが顔面から氷に突っ込んで鼻を擦りむいていた。あれはかなり痛そうだったなあ。聡いラピードのことだからきっと気がついていたはずなのに彼はちっともわたしの傍から離れようとしなかったのだ。
 じぃっと片方の瞳でユーリさんに助け起こされるレイヴンさんを見ていたラピードは鼻を鳴らすだけで動いてくれる様子はない。彼には彼なりの助ける基準のようなものがあるらしくレイヴンさんは手助けする対象には入らないようだ。なんだか申し訳ない気持ちになってくる。

(これは無理そう……)

 すみません、レイヴンさん。わたしにはラピードの説得は役不足です。
 アズサちゃんばかりずるいとばかりにこちらを睨めつけるレイヴンさんにわたしは苦笑いを浮かべることしか出来なかった。
 氷の道にも慣れてきて足を滑らせることも少なくなってきた頃、わたしたちはようやく開けた場所に辿り着く。どうやらこの辺りは氷ではなく岩のようで足を踏みしめる感触が全然違った。陸地はまだ肉眼では確認できないけれどたいぶ進めているのではないだろうか。久しぶりの滑らない地面にホッと息を吐いていると、冷たい海と氷に突き刺さった剣しかなかったゾフェル氷刃海で今までとは違うものを見つけてわたしは顔を上げた。自分の身長よりもずっと大きな結晶。透き通っていて中央部は綺麗な緑色に染まっていた。

「おろ、なんだこりゃ。どっかで見たような……」
「これエアルクレーネじゃない!!」

 そうだ、エアルクレーネ。どこかで見覚えがあると思ったら。こんな場所にもあるなんて予想外だったのだろう。大きく目を見開いたリタちゃんは勢いよくエアルクレーネに張り付く。けれど今までに見てきたものとはちょっと様子が違っていた。

「でもエアルが出てないわね。涸れた跡なのかしら?」
「その割にこの辺は荒廃していないみたいだけど」

 エアルクレーネは暴走すると周りの環境に絶大な影響を与える。実際にケーブ・モック大森林では植物が異常な程に巨大化していた。反対に涸れてしまえばコゴール砂漠のように荒廃した土地になる。けれど、この場所はそのどちらとも言い難い。一体どういうことなんだろう。頭に疑問符を浮かべていると背後にいたジュディスさんが突然声を張り上げた。

「みんな気を付けて!」

 反射的に背後を振り返るとわたしたちのすぐ後ろの海に黒い影が見える。そろそろいい加減にしてほしい。

「うわ、ま、また出た!」
「大丈夫っしょ。ここ岩の上よ」

 レイヴンさんが言った次の瞬間、大きな水飛沫が上がったかと思うと想像以上の巨体が宙を舞う。唖然として頭上を見上げることしかできないわたし。誰かこれは嘘だと言って、お願いだから。しかし、わたしの願いは無情にも冷たい海へ消えていく。
 輝く鱗に覆われた背骨はパティちゃんの言っていたとおり――ガチガチのピカピカだった。


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