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 海を泳いでいた魔物が宙を舞うなんて……そんなの反則だ。

「あらま」

 そんな気の抜けたレイヴンさんの声が聞こえた、気がした。驚く間もなくバイトジョーの口がぐわりと大きく開き咆哮を上げる。何度も人間を襲ってきたのであろう黄ばんだ鋭い歯が視界に映って背筋に冷たいものが走った。微かに揺れる地面。何をするのかと身構えていると、突然足元から光が零れだしてきた。淡い黄色の暖かい光。それはケーブ・モック大森林で見たものととても良く似ていた。

(この光……!)

 わたしは勢いよく背後を振り返る。そこには急激にエアルを生み出すエアルクレーネの姿があった。ついさっきまで動いていなかったはずなのに。

「エアルクレーネが!?」
「やべえ!」

 濃度の濃いエアルはユーリさんたちの自由を奪ってしまう。はやくここから離れないと。そう思う頃には既にユーリさんたちは顔を歪めてしゃがみ込んでしまっていた。一瞬で色んなことが起こりすぎていて上手く状況が掴めない。ただひとつ分かっているのは、今の状況が非常にまずいということだけだ。
 わたしは再びバイトジョーを見上げる。光沢のある頑丈な尾びれ。バウルと同じくらいなのではないかと思う程の巨体。わたし一人でどうにかできるだろうか。満足に戦うことのできないこの"躰"で。一気に血の気が引いていく。本来ならエアルクレーネに関係なく動けるはずなのにわたしは足が竦んでその場から動けなかった。

「……まさか、エアルクレーネを狩りに使う魔物がいるなんて」
「うちとしたことが……こんなの、知らんかったのじゃ……」
「カロル、アズサ、逃げろ!」
(カロルくん……?)

 必死に横目で確認すればわたしたちの立つ場所から離れたところで立ち尽くすカロルくんの姿が映った。カロルくんもバイトジョーを見上げて青ざめてはいたが。おそらくユーリさんたちの内の誰かが身動きが取れなくなる前に彼を移動させたのだろう。とりあえずわたし以外に動ける人がいて内心ホッとした。だけど、逃げろって言われたってそしたらユーリさんたちは……。
 わたしはバイトジョーから目を逸らさないまま必死に首を横に振った。ぎょろりと大きな瞳がこちらを向いてびくりと肩が震える。活発化したエアルクレーネを前に動けているわたしを異質に思っているのだろう。

「嫌ですっ……!」
「そ、そんな! みんな食べられちゃうよ!」
「二人で勝てる相手じゃねぇだろうが!」

 ユーリさんの言っていることは最もだ。とてもわたしとカロルくんの二人で叶う相手ではない。肌にピリピリと感じる緊張感はそこら辺にいる魔物の時とは全然違う。ましてや相手は宙を飛んでいるのだ。空中戦なんてほぼ未経験のわたしには難易度の高い相手であることに間違いない。

(どうする……)

 アズサの力を借りれば多少は戦えるだろうが、今のわたしの"躰"はボロボロだ。きっと長い時間は戦えない。カロルくんもアレクセイによって受けた傷を治しきれていないはずだ。二人なら倒すまではいかなくても追い払うくらいならできるのではないだろうか。水属性のものならわたしも広範囲で比較的強力な魔術も発動できる。隙を作ればきっとカロルくんも攻撃しやすくなるはずだ。
 わたしはバイトジョーを睨みつけたままゆっくりと双剣を引き抜く。ほのかな赤い光を帯びる胸のペンダント。やめろ、アズサ! と、背後からわたしを止めようとするユーリさんたちの声が聞こえたけれど、聞こえないふりをした。双剣を構えてわたしは先日リタちゃんから教わったばかりの新しい詠唱を紡ぐ。

「……蒼き命を讃えし母よ、」
「アズサーっ!」

 思わぬ方向から名前を呼ばれて集中が切れたと同時に消え去る魔法陣。カロルくんの声に反応してバイトジョーが体の向きを変える。遠目からでも彼が大きく肩を震わせたのが分かった。

「カロルくん……?」
「アズサはバリアーを張ってみんなを守って!」

 広範囲でバリアーを張るのはそれほど難しくはない。ただ、バリアーを張ってしまうと今度はカロルくんと一緒に戦えなくなってしまう。わたしは徐々にカロルくんに近づいていくバイトジョーをハラハラと見守りながら口を開いた。

「カロルくん一人じゃ大変だよ! わたしも戦う!」
「アズサはまだ傷が治ってないんだから無茶したらダメだよ!」
「それはっ、でも、そんなのカロルくんだって……!」

 ボロボロなはずなのに、と言おうとした口を閉ざす。カロルくんの微かに細められた琥珀色の瞳が最後まで言わせてくれなかった。あんなに足が細かく震えているのに、怖くないはずがないのに――虚勢を張っているのはきっとお互い様なのに。わたしは唇を引き結ぶ。

「アズサ……カロルを連れて逃げろ、頼む……」

 背後から聞こえるユーリさんの低く掠れた声。わたしは強く双剣を握りしめる。

「――嫌、です」

 ユーリさんたちを置いて自分たちだけ逃げるなんて、それだけは、絶対にできない。
 わたしは小さく詠唱してバリアーを張る。活発化したエアルクレーネのそばでも自分の魔術はしっかりと発動できるようだ。ドーム型の透明な壁がわたしとユーリさんたちを覆う。これで少なくともバイトジョーの攻撃がユーリさんたちに及ぶことはない。カロルくんが自由に戦える環境は整った。
 カロルくんはわたしたちにバリアーが張られたのを確認してから静かに武器を構える。雪がしんしんと静かに降り続いていた。

「ボクがやらなきゃ……今やらなきゃ……」
(カロルくん……)
「今やらなくていつやるんだぁ!!」

 旅を始めた当初は戦いの知識も経験も全くなくて、ユーリさんたちが戦っているのを離れた場所からただ見守っていることしかできなかった。あの頃も何もできない自分に歯がゆさを感じていたけれど、今の"何もできない"状況の方が正直言って何倍も苦しい。
 バイトジョーに何度も立ち向かって何度も吹き飛ばされいるカロルくん。時々、隙を見ては自分自身に回復技をかけていたけれど今までの疲労も蓄積されて彼の動きは確実に鈍くなっている。ついには愛用していた斧も強固な尾びれに弾き飛ばされてしまった。次第に増えていく傷が痛々しくて見ていられない。
 何度もユーリさんたちが逃げろと叫んだけれどカロルくんは戦い続けた。大丈夫だから、と弱々しく笑って。そんなはずないのに。今にも倒れてしまいそうな程に足元はふらついていて、呼吸も弱々しくなっているのに。どうしてわたしはボロボロなカロルくんを見ていることしかできないのだろう。せめてエアルクレーネさえ止まってくれればわたしもカロルくんに加勢できるのだが、ちらりと肩越しに見たエアルクレーネからは絶えずエアルが溢れていた。

「ボクの後ろにはみんながいるから、ボクがどんだけやられてもボクに負けはないんだ」

 カロルくんは流氷に突き刺さった剣に向けて走り出す。その手が斧を掴んだと思った瞬間、彼の身体は宙を舞った。えっ、と唇から無意識に声が漏れる。バイトジョーに体当たりをされたのだ。だらりと垂れ下がった腕がもう彼に残された力がないことを物語っている。万が一にもなんて、そんなこと思いたくなかった。堪らず駆け出しそうになったわたしの目に、くるりと上空で回転するカロルくんの身体が映る。自分の身体よりも一回り大きな斧を振りかざしながら真っ直ぐ降下するカロルくんの瞳に負けの二文字は確かになかった。

「ボクの勝ちだ!」

 カロルくんの斧がバイトジョーの脳天に直撃する。ぐらりと大きくバランスを崩したバイトジョーは大きな音を立ててその場に倒れ込んだ。多分、気を失ったのだろう。けれどそのお陰でエアルの放出が止まり、ユーリさんたちに自由が戻る。ユーリさんたちが問題なく身体を動かせているのを確認してから、わたしはバリアーを解いて急いで仰向けに倒れたカロルくんの元に駆け寄った。瞳を閉じたまま動かない彼の名前を何度も呼ぶと閉ざされていた琥珀色の瞳と視線が絡み合う。良かった、生きてる。わたしはホッと安堵の息を吐きながらゆっくりとカロルくんを抱き起した。いててて、と小さく呟く彼の頬や腕には案の定たくさんの傷があってきゅっと胸が締め付けられる。一緒に戦えなかった申し訳なさでいっぱいだったけれど、今のカロルくんに伝えるべき言葉はそれじゃない。

「……ありがとう、カロルくん。かっこよかったよ」
「ボクの方こそありがとうアズサ。アズサがみんなを守ってくれたから安心して戦えたんだよ」

 疲労の色は拭えないけれど、どこか達成感に溢れた笑みを浮かべるカロルくんにわたしはうっすらと笑った。しかし、落ち着いたのもつかの間、ずるずると布を引きずるような音が聞こえて弾かれたように顔を上げる。まさかもう意識を取り戻したというのだろうか。カロルくんの一撃はかなり効いていたように見えたのに。ゆらりと再び宙に舞う巨体をわたしとカロルくんは呆然と見上げる。あんな強い魔物、本当にわたしたちで倒せるのだろうか。途方もない不安が胸の内を駆け巡る。しかし、それを払拭させたのはわたしの頭にポンと手のひらを乗せた人物だった。押さえつけられた前髪の隙間から覗く紫黒の瞳。視線が絡み合うと彼は目尻を柔らかく細める。ユーリさんがこういう表情をする時は、きっと、大丈夫だ。

「今回はアズサちゃんの頑固さにも驚いたところだけど、まったくとんでもないことをする少年だねえ。生きてるかぁ?」
「みんな!」
「悪ぃ。ちょっと道が混んでてな。いけるか?」
「も、もちろんだよ!」

 気付けばわたしたちの周りには武器を構えるユーリさんたちの姿。みんな、特に怪我をしている様子もなさそうだ。わたしはカロルくんの手を引いて一緒に立ち上がった。
 視線を上に向ければそこには完全に敵意を向けたバイトジョーがいる。わたしは自分を落ち着かせるために細く長く息を吐いた。視界の端でユーリさんの整った薄い唇が三日月を描く。

「よし、食らった分、倍返しにしてやろうぜ!」


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