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 わたしにとってバイトジョーという敵は非常に厄介だ。まず攻撃が届かない。今まで使っていた棍と違ってリーチの短い双剣で戦うとなるといくら身体が大きい言ったって空を飛ぶ魔物にわたしの武器が届くはずもなく。それなら魔術で応戦するしかないと何度か発動させてみたけれど、わたしの選択肢の少ない水属性の魔術ではあっという間に攻撃パターンを読まれて早々に当たらなくなってしまった。バイトジョーの尾びれが真横から襲い掛かってきて反射的にわたしの"躰"はその場から大きく飛びのく。着地をした瞬間、脇腹がずきっと痛んで思わず歯を食いしばった。今のわたしでは地上を駆け回るだけでも精一杯だ。
 一体どうしたらいいんだろう。他の属性の魔術を発動させても良いのだが水属性のものに比べたら威力は格段に落ちる。仮に当たったとしてもバイトジョーの硬い鱗に弾かれてしまうのがオチだろう。みんな必死に戦っているのにわたしだけ、何も出来ていない。小さく唇を噛みしめていると不意に肩にとんと手を置かれた。誰だろう、と振り返る前に高い位置でひとつにまとめた紫がかった青い髪がわたしの隣を横切る。

「アズサは広範囲の魔術で動きを止めて」
「っ、はい!」

 バイトジョーに向かって勢いよく駆け出すジュディスさんの背中を見つめたままわたしはすぐに双剣を構える。足元に浮かび上がる魔法陣。そして想像する。一瞬でも動きを止められるように勢いは強く、鋭く。頭から湧き上がってくるイメージを研ぎ澄ませてわたしは詠唱を紡いだ。

「蒼き命を讃えし母よ、破断し清烈なる産声を上げよ――アクアレイザー!」

 愛用の槍を構えて軽やかに跳躍したジュディスさんを追いかけるように地面を走る二本の水流。本来ならこの技は相手の真下に滑り込ませて宙に打ちあがらせるための魔術だが、既に何度もバイトジョーにかわされている。けれど、今回は当てるための魔術ではない。相手の身体の真横に走らせて高い水の柱を形成すれば、バイトジョーの動きはかなり狭まる――そして、頭上からジュディスさんが華麗な斬撃を入れていった。今までに聞いたこともない咆哮が辺りに響き渡る。重力に逆らって空を漂っていたバイトジョーの身体がぐらりと大きく傾いた。

「やったのじゃ!」

 嬉しそうなパティちゃんの声。やがて大きな音を立てながらバイトジョーの身体が地面に落ちる。ぴくりとも動かなくなったのを見てわたしはようやく張りつめていた緊張の糸を解いた。時間こそ計っていなかったけれど、かなり戦っていたのではないだろうか。
 強く握りしめていた双剣を静かに鞘に納めると背後でドサッと何かが倒れたような音がして振り返る。視界に映ったのは武器を投げだし倒れ込んだカロルくんの姿。心臓を鷲掴みされたみたいに息が詰まる。
 そんな……せっかくバイトジョーを倒したのに……!

「カロルくんっ!」

 わたしは慌ててユーリさんに支えられたカロルくんの顔を覗き込んだ。大きな琥珀色の瞳は瞼に閉ざされて見えなかったけれど、ほんの少し開いた唇からは規則正しい吐息が聞こえてくる。

「……大丈夫。安心して気がゆるんだのね。気を失ってるだけ」
「気を、失ってるだけ……」

 ぽんと肩に手を置かれて振り返ればジュディスさんがゆるりと微笑んでいた。わたしはもう一度カロルくんの顔を覗き込む。そっか、気を失ってるだけ……。ようやくジュディスさんの言葉の意味を理解したわたしはホッと胸を撫で下ろした。

(良かった……)
「ったく……エステルを助けに行くのに、あんたが先にやられちゃったらどうすんのよ」
「ま、そういいなさんな。男にゃ勝負時ってのがあるのよ。おかげで助かったわ」
「ああ。カロルがいなかったら、オレたち今頃あいつの胃の中だ」

 ユーリさんの言う通りだと思う。カロルくんが勇気を振り絞ってひとりで戦ってくれたから今のわたしたちがいるのだ。だらんと力なく垂れ下がったカロルくんの手を握りしめる。ほんのりと伝わってくるぬくもり。この温かさが消えなくて本当に良かった。そうですね、と小さく呟いたわたしの頭に手のひらが乗っかる。くしゃりと乱れた前髪の隙間から見えたユーリさんの瞳は優しく細められていた。

「もちろん、アズサもな」

 命がけで守ってくれたカロルくんに比べたらわたしは大したことなどしていない。ただバリアーを張って自分とユーリさんたちの身を守っていただけだ。
 そう言いかけた唇を静かに閉ざす。カロルくんが言ってくれたのだ、わたしがいてくれたから自分は安心して戦えたのだと。もしここでわたしがわたしを否定してしまったら、わたしは彼の想いごと否定してしまうことになる。カロルくんはカロルくんのできることを、わたしはわたしにできることをやった。その結果ユーリさんたちを守ることができたのだから、それで良かったじゃないか。
 わたしはユーリさんを見上げてゆっくりと口角を持ち上げてこくりと頷く。カロルくんのお陰でいつもよりほんの少しだけ、自分を誇れるような気がした。

***

 久しぶりに踏みしめる草の感触に強張っていた身体の緊張を久々に解く。できればあんな足場の不安定な場所はもう行きたくないなと思った。
 なんとかゾフェル氷刃海を通り抜けてハルルの街に辿り着いたわたしたち。この街の結界魔導器(シルトブラスティア)であるハルルの樹も満開で特に大きな変化はないように見えたのだが、以前に来た時と比べて明らかに人が多いのが気になる。しかも、この街にはかなり不釣り合いな整った身なりの人たちばかり。レイヴンさんが言うには帝都から逃げてきた貴族街の住人らしい。これだけ避難している人がいることを考えると帝都の状況はかなりまずいことになっているのではないだろうか。言いようのない不安が胸を過ぎる。
 脳裏にちらつくハンクスさんたちの姿。みんな、無事に逃げられたのだろうか……。きょろきょろと街中を見渡していると不意に苦しそうな声が耳に届いてわたしは顔を向けた。そして目の前に映った光景にぎょっと目を剥く。

「カロルくん……?」

 真っ赤に染まった頬に潤んだ瞳、よく見れば足元もふらついていて――様子がおかしいのは明白だった。咄嗟に両肩を支えるとぐったりともたれかかってくる。服越しでも分かるくらいにカロルくんの身体は熱かった。戸惑うわたしの声に気付いたジュディスさんたちが駆け寄ってくる。

「カロル、大丈夫?」
「大丈夫じゃないみたいね」

 腕の中で荒い呼吸を繰り返すカロルくんの額に手を当てるジュディスさん。案の定、発熱しているらしく宿屋で休ませようという話になった。レイヴンさんがカロルくんを背負って宿屋に向かって歩き出す。緩やかな坂道を進んでいくレイヴンさんたちの背中を見守りつつ、わたしもそれに続こうとしてふと足を止めた。いつもなら誰よりも先に進んでいく人が目の前の光景に映っていなかったのだ。
 わたしはゆっくりと背後を振り返る。長い睫毛に縁どられた紫黒の瞳はいつもより剣呑さを含んでいて、真一文字に引き結ばれた唇はぴくりとも動かない。カロルくんを宿屋で休ませようと話していた時もどこか遠くを見ていて少し様子が変だった。わたしはちらっと足元にいたラピードと目配せをして静かにユーリさんの元に向かう。今こうしてユーリさんに近づいている間も彼はわたしに気付かず考え込むように瞳を伏せていた。

「……ユーリさん、」

 多分、わたしとユーリさんが考えていることは同じなんだと思う。けれど目の前の彼はそれを悟らせないようにいつもの調子で振る舞うのだ。

「ん? どうしたアズサ」
「……」
「アズサ?」
「……きっと、ハンクスさんたちも無事に避難してますよっ!」

 まだ下町の人たちを一人も見かけていないけれど、わたしたちがハルルの街にやってきたのはついさっきのこと。くまなく街中を捜せばハンクスさんたちもきっと見つかるはず。だから、そんなに難しい顔をしないでほしい。心配なのだ。ユーリさんはなんでも一人で抱え込もうとするから。
 いつもよりも力強く張り上げたわたしの声にユーリさんは虚を突かれたように瞳をぱちくりと瞬かせる。それが自分の考えを見抜かれたことに驚いているのか、はたまたわたしが大きな声を上げたことに驚いているのかは分からない。とにかく、一瞬でもユーリさんの眉間にあった皺をなくしたくて必死になっていた。

「ねっ、ラピード!」
「ワンっ!」

 互いに顔を突き合わせるわたしたちを見てユーリさんは小さな笑みを零す。オマエらいつの間にそんなに仲良くなったんだ? なんて髪を揺らしながら笑って。その表情が普段のユーリさんと同じだったから、わたしは安心しきってしまったのだ。ああ良かった、いつものユーリさんだって。
 ――彼が、一人で抱え込んでしまう性格だと分かりきっていたはずなのに。


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