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 宿屋に入っても避難した帝都の人たちはたくさんいてざわざわと騒がしい。その中にもハンクスさんたちらしき姿は見当たらなかった。

「いらっしゃい、ようこそ宿屋デネボラへ! お代は結構でさ」
「へ? なんで?」

 きょとんと小首を傾げるリタちゃんに爽やかな笑みで迎えてくれた宿屋の主人曰く、帝都の偉い人がお金を払うから誰でもタダで泊めてあげてほしいと言ってきたのだとか。ラゴウやキュモール、それにアレクセイ。この頃は己の権力を振りかざして悪事を働いてきた高い身分の人たちを見てきたからか、世の中にはそんな良い人もいるんだなとひっそり心の中で感心する。けれど、周りの様子を見る限りかなりの人が宿屋を利用しているようだ。はたして残ってる部屋などあるのだろうか。主人が手元でパラパラとめくる帳簿にはおそらく宿泊している人たちの名前なのであろう文字がびっしりと埋まっていた。ハラハラしながら見守っているとやがて顔を上げた主人はにっこりと笑う。

「ちょうどひと部屋ある。運がいいよ、あんたたち」
「良かった……じゃあその部屋を、」
「ならばその部屋、私が借りてやろう」

 カツン、と靴音が聞こえて肩越しに振り返れば高級そうな服を身にまとった中年の夫婦がいた。おそらく彼らも帝都から逃げてきた貴族なのだろう。ハルルの街並みには少し不釣り合いな煌びやかなアクセサリーを揺らして夫婦はわたしたちの横を通り過ぎていった。ちらりと見下ろされた視線がすごく冷ややかなもので一瞬怯んだけれど負けじと相手を睨み返す。

「ちょっと旦那ぁ、横入りは勘弁してくださいよ」
「無論ただとは言わん。本来の十倍の額を払ってやるぞ。おまえたちにも同じ金額をやろう。それなら文句なかろう」

 下町に住み始めたばかりの頃、女将さんやハンクスさんに口酸っぱく言われていたのを思い出す。貴族街には絶対に行ってはいけない、と。あれはこちらを下に見るような態度をとってくるから不容易に近づくなという意味だったのだろう。今なら彼らの言葉の意味がとても良く分かる。確かにこれは関わってはいけない人間だ。怒りの感情がむくむくと湧き上がってきて今にも爆発しそうだった。
 僅かに残った理性でユーリさんたちの空気が一気に冷え込んだのが肌で分かる。リタちゃんなんてあんなに分かりやすくこめかみに青筋を浮かべているのに、この人たちには見えないのだろうか。いつものわたしなら余計な騒ぎを起こさないように必死でユーリさんたちを止めようとしただろうが……今まで寒空の下を散々歩き回り、強力な魔物と対峙し、満足に体力の回復もできず満身創痍でやっとここまで辿り着いた。その結果熱を出してしまったカロルくんも休ませてあげたい。なにより先に宿屋に辿り着いたのはわたしたちなのだ。それなのにいきなり後からやってきてさらには我儘な要求までして、誰が呑むと言うのだろう。真っ先に啖呵をきるユーリさんを誰も止める人はいなかった。

「おいこら……」
「いやー申し訳ない! 帳簿よーく見たら、空き部屋は勘違いでしたわ。すんませんね、どーも」

 一際大きな声を上げてぺこぺこ頭を下げるご主人に貴族夫婦はぶつくさと文句を言いながら踵を返した。どうやら二人はヘリオードに行きたいようだったが、通り道であるエフミドの丘は巨大な穴で行く手を塞がれている。現時点で港のあるカプワ・ノールに向かうにはゾフェル氷刃海を渡るしかない。そのことを彼らは知らないのだろう。まあ、仮に知っててもあの二人には難しいと思うが。ばたんと、荒々しく宿屋の扉が閉められる。

「ノール港には行けないと思うぞー……っと」
「……ですよね」
「さてお待たせしましたね、お客さん。部屋は上がって正面だ」

 ちょうどわたしが一番近い位置にいたからなのだろう。再び主人の方に体を向けるとわたしの目の前で赤銅色に輝く一本の鍵がゆらゆらと揺れていた。でも、さっき空き部屋はないって言ってたのに……。頭に疑問符を浮かべながらもわたしはそれを両手で受け取った。

「いいのかよ、商売だろ?」

 ユーリさんが尋ねると主人はいいんだいいんだ、と笑って顔の前で軽く手を振る。どこの世界でも我儘なお客というのは嫌われるようだ。主人は言葉を続ける。

「それに、あんたたちはハルルの樹を救ってくれた人たちだろ? このくらいのことはさせとくれ。ごゆっくり!」

 借りた鍵を使って案内された部屋に入るとまず目を奪われたのは予想以上の広さだった。おそらく団体客用の部屋なのだろう。最低限カロルくんだけでも休ませられればと思っていたから、こんなに立派な部屋が残っていたのはラッキーとしか言いようがない。
 夕日の落ちてしまった部屋は薄暗くて、天井の灯りをつけようとスイッチに手を伸ばした。その時、不意に窓の外に映った景色を見てわたしはぽつりと言葉を零す。

「あ……」
「アズサ、どうかしたのか?」
「あ、いえ、なんでもないです」

 不思議そうにこちらを見つめるユーリさんに曖昧な笑みを浮かべてわたしは今度こそ灯りのスイッチを押した。レイヴンさんが窓に一番近いベッドにカロルくんを寝かせたのを確認して今度は灯りを一番小さいものに変える。あんまり明るいとカロルくんも気になってゆっくり休めないだろうから。足音を立てないようにそっとベッドに近寄れば小さく聞こえてくる規則正しい寝息。額に手を当てるとまだちょっぴり熱かった。後でタオルを借りられないかご主人に聞いてみよう。
 カロルくんが元気になるまでユーリさんたちは帝都の情報を集めをするために長老の家に向かうらしい。わたしはカロルくんの容態が気になるのもあってレイヴンさんと一緒に部屋に残ることにした。ユーリさんたちを見送ってから一人でご主人の元に向かうと彼は快くタオルを数枚貸してくれた。部屋に戻り、その中の一枚を水で濡らしてカロルくんの額に乗せる。気休め程度にしかならないと思うけれど何もしないよりはましだろう。ひんやりとしたタオルが心地よいのかカロルくんの表情が和らいだような気がしてわたしはそっと口元を緩めた。

「――アズサちゃんはさ、アレクセイとどんな因縁があるの?」
「え?」

 顔を上げると穏やかな表情を浮かべたレイヴンさんと視線がぶつかる。探るというよりは問いかけるような優しい声色だった。

「バクティオンの時のアズサちゃん、なんていうかすごい迫力があったからさ。何かあったのかなーと思って。あっ、言いたくなかったら無理に言わなくていいからね」

 レイヴンさんが言っているのはおそらくシュヴァーン隊長として剣を交えた時のことを言っているのだろう。雰囲気が違うとレイヴンさんが感じるのも無理はない。あの時のわたしはわたしではなかったのだから。エステルちゃんの今にも泣きそうな顔を見て、気が付いたらアズサに"躰"を明け渡していた。
 けれど、わたしはまだユーリさんたちに自分の中にいるもう一人の自分について話していない。わたしが異なる世界の人間だと信じてはくれたが、わたしの中にまだこの世界のわたしがいることをはたして彼らは信じてくれるのだろうか。胸元で揺れる武醒魔導器(ボーディブラスティア)を静かに握りしめる。

「あの時はとにかくエステルちゃんを助けたくて必死だったのもあるんですけど……アレクセイは、わたしがこちらの世界に来るきっかけを作った人だったんです。蒼の迷宮(アクアラビリンス)が魔物に襲われていなかったらきっとわたしは……」
「そっか、なるほどね。アズサちゃんもアレクセイに人生狂わされちゃった一人だったってことか。話してくれてありがと」

 月明かりに照らされながら穏やかに微笑むレイヴンさんにわたしはふるふると首を横に振った。辛い思いをしたのはわたしではなく彼女の方。それに"魂"のことも含めて、いつかはみんなに話さないといけないことだったと思うから。わたしはカロルくんを見守るレイヴンさんから視線を移動させて窓の外を見つめる。満天の星空の下でほのかな光を放つハルルの樹。まるでライトアップされているかのような幻想的な光景が記憶の中の光景とぴったり重なっていく。ご主人が案内してくれたのは本当に偶然だったのだろう。ハルルの樹を治したユーリさんたちのことは覚えていたけれどわたしを覚えている素振りは全くなかったから。

(やっぱり、わたしが休んでいた部屋だ)

 ハルルの樹が満開になると予約でいっぱいになると言っていた角の部屋。あの時は具合が悪くて内装を見る余裕なんて全くなかったから、まさかこんな広い部屋に通されていたなんて思ってもみなかった。けれど窓から見える景色は紛れもなく記憶と一致している。そういえば坂道を下りてくるエステルちゃんたちに大きく手を振ったっけ。ガラス越しに映る坂道を指でなぞる。ちょうど情報収集から帰ってきたユーリさんたちの姿が見えたけれど、その中にやっぱりエステルちゃんの姿はなくてきゅっと唇を引き結んだ。最初に街を訪れた時はただ、自分の身の潔白を証明したかっただけなのに。
 ――今は随分と状況が変わってしまった。


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