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 息を呑んでしまう程の満天の星が夜空に浮かんでいる。けれど、今のわたしに景色を楽しむ余裕なんて全くなかった。
 街での情報収集を終えて部屋に戻ってきたユーリさんたち。その曇った表情を見てあまり良い知らせはないのだろうと覚悟はしていたつもりだったけれど、彼らから聞かされたのは想像以上にひどい帝都の現状だった。
 突然街を襲った地震と落雷。そしてエアルの暴走による植物の巨大化と水の毒化。すべてアレクセイがエステルちゃんの力を利用して引き起こしたものだろう。今や帝都は人の住めない街になってしまっているらしい。何よりも一番恐ろしかったのが、

「ハンクスさんたちが逃げきれていない……?」
「ああ、少なくともヨーデルは見てないらしい」
「そんな、だって、帝都は人が住めるような状況じゃないってっ……!」

 植物が巨大化しているのは多分エアルが暴走しているからだ。帝都全体が同じような状態になっているのだとしたらかなりの濃度のエアルが街を覆っているということになる。濃いエアルは人にとって毒だ。そんな危険な場所にハンクスさんたちは取り残されているというのだろうか。貴族街の人はこんなにも助かっているというのに。どうしてハンクスさんたちだけ……。
 さあっと一気に血の気が引いていく。宿屋を無料にしてくれたのがヨーデルさんだったんだとか、以前ヘリオードまで一緒に連れて行ってもらった時のお礼を言いに行った方が良いだろうか、なんて呑気に考えていた自分を殴りたい。カロルくんが眠っているベッドと反対のベッドに腰かけていたわたしは行き場のない気持ちを必死に抑え込もうときゅっと唇を噛みしめる。今ここで何を言ったところで現状は変わらないのだ。

(それに、わたしよりユーリさんの方がずっと……)

 わたしは横目にユーリさんの表情を伺う。彼は眉間に皺を寄せて険しい表情をしていた。わたしは再び視線を足元に落とす。最悪の状況なんて考えたくもないけれど、どうしても悪い想像ばかりが頭を駆け巡ってしまう。

「――――姐、アズサ姐」

 ぐるぐると考えを巡らせていると不意にくんっと服の袖を引っ張られた気がしてわたしはハッと我に返った。目線を持ち上げると不安げな表情をしたパティちゃんと視線がぶつかる。

「アズサ姐、大丈夫か?」

 彼女のまあるい海色の瞳に映っていたのは驚くほど青ざめた自分の顔。こんなに顔色を悪くしていたらパティちゃんが気になってしまうのも当然だ。わたしは心配をかけまいとなんとか口角を意図的に持ち上げて笑みを作る。大丈夫だよ、と喉から絞り出した声は情けないことに少し震えていた。

「フェローに聞いてみるわ。まだどのくらい時間が残されているかって」

 時間、というのはもしかしてエステルちゃんのことだろうか。ハンクスさんたちのことで頭がいっぱいでろくにユーリさんたちの話も聞けていなかった。ジュディスさんがヒールを鳴らしながら部屋の隅に移動する。耳に手を添えてフェローと連絡を試みるジュディスさんの背中を黙って見つめていると反対側のベッドから小さく呻くカロルくんの声が聞こえて弾かれたように立ち上がった。ベッドのスプリングがきしりと鳴る。
 うっすらと瞼を持ち上げたカロルくんの瞳はまだ熱っぽくて完全に体調が良くなってるわけではなさそうだった。そのままユーリさんと話し始めたカロルくんに近づいて額に乗せたタオルに触れると最初よりもかなり乾いてしまっていて、ベッドサイドに置いてあった水に濡らした予備のタオルと交換する。

「さ、もう少し寝とけ。な?」
「うん……」

 明日、みんなでエステルちゃんを助けに帝都に向かうとユーリさんと約束したカロルくんは安心したように再び瞼を下ろした。ゆっくりとお腹が上下しているのを確認してさっきよりも呼吸が深くなっていることにホッとする。もう一回ぐらいはタオルを交換した方が良さそうだ、と洗面所に向かおうとしたところでジュディスさんが手を下ろしたのが視界に映る。無事にフェローと連絡が取れたのだろうか。どうでした? と尋ねるとジュディスさんは静かに首を横に振った。

「つながらないわ。エアルが乱れてるせいかも」
「そうですか……」
「いいさ、どっちみち、アレクセイの野郎をぶっ倒すだけの話だ。だろ?」
「……それだけ?」

 探るようなジュディスさんの視線がユーリさんに向けられる。それを正面から受け止めるユーリさん。アレクセイを止めてエステルちゃんを救出する、それ以外にもやらなければいけないことがあるのだろうか。わたしは渇いたタオルを握りしめながら言葉の真意を汲み取ることができずに睨み合うジュディスさんとユーリさんをおろおろと交互に見つめる。先に視線をそらしたのはユーリさんだった。

「……ちょっと外の空気吸ってくる。カロル、見ててやってくれ」

 ユーリさんが夜の散歩に行くのはそれほど珍しいことではない。ないはずなのに、どうして胸がちょっとざわつくのだろう。いつもと同じ声色だったと思うのだけど。今日は珍しくラピードも一緒についていこうとしているからだろうか。拭えない違和感を抱えながら扉の向こうに消えていくユーリさんの背中を見つめた。
 ユーリさんの姿が見えなくなってからリタちゃんはヨーデルさんに話を聞いていた時のユーリさんの様子を教えてくれた。宿屋に戻る途中、あまりに張りつめた彼の雰囲気に誰も声を掛けられなかったという。だからパティちゃんも心配になって思わず引き止めてしまったらしい。結局、ユーリさんは部屋を出ていってしまったけれど。

「また一人で突っ走らないといいんだけどねえ、青年」
「……そう、ですね」

 ハルルの街から帝都まではクオイの森を通らなければならない。いくらユーリさんが強い人でも一人で夜の森を突破しようとは思わないはず。きっと、本当に外の空気を吸いに出かけただけだ。そう思うことにしてわたしは今度こそタオルを濡らす為に洗面台へと向かった。
 ――けれど、次の日の朝になってもユーリさんは帰ってこなかった。

***

 もしかしたらわたしたちの寝ている間に戻ってきて、目が覚める前に再び街に繰り出したのかもしれない。僅かな望みをかけてハルルの街をくまなく探したけれどユーリさんの姿はなかった。ラピードも見当たらないことを考えると今も一緒に行動している可能性が高いのだろう。そして、街にいないとなればユーリさんの向かった場所は分かっている。
 有り体に言うと――置いていかれたのだ、ユーリさんに。

「見つけたら即ぶっとばすっ!」
「リ、リタちゃん、落ち着いて……」

 リタちゃんは朝からずっとこんな調子だ。歯をギリギリと噛みしめていて苛立ちを隠す様子もない。クオイの森に入ってからも戦闘時の魔術が必要以上に広範囲で相当怒っているんだろうなあと頭の隅で考えながら見守っていた。このままだとクオイの森ごと焼き払ってしまいそうな勢いだ。
 ここまで露骨に苛立ちを隠さないのも珍しいなと思いながら彼女をなだめていると、眦の吊り上がった瞳がわたしを睨みつけた。

「アズサはむかつかないの!? あたしたち置いてかれたのよ!?」
「うーん……まあ、ユーリさんならやりかねないなとはちょっぴり思ってた、けど」

 頬を指でかきながらわたしは苦い笑みを浮かべる。前日の夜、部屋を出ていくユーリさんを見てなんとなく違和感は感じていた。ラピードが一緒に行こうとしなかったらそこまで思わなかっただろう。いつも寄り添ってくれることの多いラピードだけど、最終的に落ち着くのはやはりユーリさんの隣なのだ。だからわたしはそこまで驚きはなかった。パティちゃん、ジュディスさん、レイヴンさんの三人も同じなのだろう。今朝宿屋にユーリさんが見当たらなくてもやっぱりか、というような表情でさほど驚いている様子は見られなかった。
 その中でも一際落ち込んでいるのが、

「ひどいよユーリ……置いてっちゃやだっていったのに」

 ぽつり、と呟いたカロルくんは今朝には熱も引いてすっかり元気になっていただけに置いてかれたのが相当ショックだったらしい。眉を八の字にしてトボトボと歩く姿はまるで捨てられた子犬のようで。落ち込むカロルくんにわたしは何も言えずただ彼の頭をそっと撫でた。
 ユーリさんはもう帝都に着いているのだろうか。いくらラピードがいるとは言っても単独でクオイの森を抜けるにはかなりの体力が必要のはず。なんとかしてユーリさんに追いつく為にもひたすら森を突き進むしかない。曲がりくねった細い道を抜けた頃のことだった。前方からがさごそと茂みをかき分ける音が耳に届いて咄嗟に双剣に手を伸ばす。この辺りの魔物はあんまり強くはないと思うが、戦闘にもつれ込むことが度々あるのだ。初めてこの森を通った時はここまでじゃなかった気がするんだけど……これもエアルの乱れによる影響なのだろうか。

「あーもう! この辺りの魔物しつこすぎ!」

 リタちゃんが詠唱を唱え始める。彼女の足元に浮かび上がる上級魔術の魔法陣。今日は朝から絶好調だなあ、と横目に見ながら茂みを注意深く観察していると隙間から見覚えのある耳が見えてわたしは慌てて彼女の肩を押さえた。リタちゃんはどうして止めるんだと明らかに苛立った顔でこちらを見上げる。

「ラピード……?」

 おそるおそる声をかけると茂みの中から姿を現したのはやっぱりラピードだった。見間違いじゃなくて良かったと内心ホッとしながらわたしは駆け寄る。怪我はしてない? と尋ねると元気そうな一吠えと共に尻尾が揺れた。
 それにしてもてっきりラピードはユーリさんと一緒にいると思っていたのに、肝心のユーリさんの姿が見当たらない。まさか行き違いになってしまったのかと一瞬思ったけれど、ここまでの道は一本道だった。その可能性は低いだろう。わたしはラピードと目線を合わせる為に姿勢を低くする。

「ユーリさんは一緒じゃないの?」

 赤い隻眼を見つめて尋ねるとラピードはするりとわたしの横を通り抜けていった。そのまま道を進み始めるものだからわたしはその場に立ち尽くして小首を傾げてしまう。

「彼のところまで案内してくれるみたいね」

 行きましょ、とジュディスさんにとんと背中を押されてわたしはラピードを追いかけた。
 時々わたしたちの姿を確認するようにこちらを振り返るラピードに導かれるままクオイの森を進んでいくと開けた場所に辿り着いた。なんとなくこの場所には覚えがあるような気がしてわたしはきょろきょろと辺りを見渡す。初めてこの場所を訪れた時はまだ旅を始めて間もなくてユーリさんたちについていくので精一杯だったからあまり景色も覚えていないのだ。記憶の中を辿っているとラピードがおもむろに大きな岩の近くに近づいていく。ちょうど木陰で隠れてはっきりと見えないが、そこには寝そべる人の姿があった。ラピードがそこで立ち止まったということは――そういうことなのだろう。わたしはひっそりと胸を撫で下ろして隣に立つカロルくんに声をかける。

「良かったね、カロルくん。ユーリさん、」

 見つかって、と最後まで言いきることはできなかった。何故ならそこにカロルくんは既にいなかったから。
 わたしは再び前を向いて目の前に映った景色にぎょっと目を剥いた。ユーリさんに向かって駆け出すカロルくんの手には斧が握られている。咄嗟に手を伸ばしたけれど当然届くはずもなくカロルくんは眠っているであろうユーリさんに斧を振りかざした。

「ユーリのバカーーーーッ!!」

 もしかしたらリタちゃんよりも怒っていたのは実はカロルくんだったのかもしれない。
 もちろん本気で当てるつもりはなかった……はず。カロルくんの斧はユーリさんの頭すれすれを通り抜けたが、リタちゃんの魔術はばっちり当たってユーリさんは派手に吹っ飛んだ。今回は、仕方ないだろう。勝手に一人で突っ走ったユーリさんが悪いのだ。わたしも含めて誰も止める人はいなかった。
 珍しく地面に突っ伏しているユーリさんを見てわたしは思わず小さく笑ってしまうのだった。


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