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 帝都に戻るのは魔核(コア)泥棒を追って以来。それがまさかこんな形でなんて思ってもみなかった。
 市民街に足を踏み入れればその異常さは一目で分かった。帝都に入るまであんなに快晴だった空は赤く燃え、街全体は巨大な植物のツタに覆われている。ツタは頑丈なはずの石畳すら突き抜けて地面を四方に這っては不気味な花を咲かせていた。これは、想像以上にひどい。わたしは建物に絡みついた植物を横目に見て顔をしかめた。ここに長居してはいけないと本能が告げている。

「すごい濃度……まともに食らったら一巻の終わりよ」
「私たちもその剣がなかったら危なかったわね」

 ジュディスさんはそう言うとユーリさんの手に持った宙の戒典(デインノモス)に視線を落とした。わたしはこの特異な躰のお陰で何も影響を感じていないけれど、ユーリさんたちはその剣がなければ呼吸すらろくにできなくなるような環境なのだと言う。例えるなら毒ガスの満ちた空間にずっといるようなものだ。考えただけでもぞっとする。帝都から人がいなくなるのも無理はない。

「ああ、みんな離れるなよ。特におっさんは」
「えぇえぇ、もうさっきからドキドキしっぱなし。……手ぇつないでていい?」
「勘弁してくれ」
「じゃあ、アズサちゃんお願い」
「えっ」
「駄目に決まってんでしょ」

 ごく自然にわたしの手に伸びてきたレイヴンさんの手をすかさずペシンとリタちゃんが弾く。ああ、なんだかこの流れ久しぶりだな。ふと流れた穏やかな空気にわたしは密かに笑みを零した。最悪な状況下でもみんながいつも通りにしてくれるのはとてもありがたい。
 エステルちゃんのいるザーフィアス城に向かう途中、目に止まったのは進むのが困難な程植物に覆いつくされた一本道。あそこは、下町に続いているはずだった。

(ハンクスさん、女将さん、テッドくん……)

 ほんの短い間だったけれど下町にはたくさんの思い出がある。自然と当時のことが脳裏に浮かんでしまってわたしはぎゅっと唇を噛みしめた。なんとか逃げきれていることを祈るしかないのが悔しくてたまらない。じっとそこを見つめていると不意に力なく垂れ下がっていた指先を掬い上げられる。ハッと顔を持ち上げるとジュディスさんが眦を下げてわたしを見下ろしていた。どうやら無意識に足を止めてしまっていたらしい。うっすらと口角を持ち上げたジュディスさんはそのままわたしの手を引く。

「行きましょ、アズサ」
「……すみません」
「謝らなくていいわ。気になるのは当然のことだもの。けれど、最優先はエステルよ」
「分かってます」

 下町のことはとても気になるけれど、今はエステルちゃんを助けることだけに集中しなければ。
 わたしはこくんと頷いてジュディスさんの手を握り返した。

***

「あれ? エアルがないよ?」

 帝都をうろつく魔物の目をかいくぐってなんとか入り込んだザーフィアス城内。てっきりお城の中も禍々しいエアルで満ちているものだと思っていたから少し予想外だったのだろう。街の中とは一変して静寂に包まれた城内を見回して不思議そうにカロルくんが首を傾げている。わたしからすれば静かすぎて逆に気味が悪いくらいだ。

「おっさんの心配が当たった可能性大だな。きっとお出迎えがあるぞ」

 このまままっすぐエステルちゃんのところに行けたらいいけど……アレクセイのことだ、すんなり通してもらえるとは思えなかった。きっと親衛隊の厳重な警備が待っているに違いない。いつでも戦う態勢を取れるように双剣の位置を再度確認していると、背後でレイヴンさんが大きく溜息を吐いた。お城に侵入する前からレイヴンさんは敵襲が来るんじゃないかと心配していたから、大方予想が当たってしまいそうで落ち込んでいるのだろう。

「悪い予感ばかり当たんのはなんでかねえ」
「悪い方向に考えるから悪いことばっか起きるのじゃ。いいことだけ考えるのじゃ」
「なるほど……一理あるかも」
「いいこと言うわね。きっとそうだわ」
「おっさん、けっこう楽観的だと思うんだけど」

 確かに。レイヴンさんが悲観的になっているのはあまり見たことがない。
 双剣の柄を撫でながら苦笑いをしているとリタちゃんがふんと鼻を鳴らす。

「今、んなこと言ってもしょうがないでしょ。気引き締めて進めばいいのよ」
「ああ、悪いことに加担してるまがいもんの騎士なんて、オレたちの敵じゃねえだろ?」
「じゃの」

 今のわたしたちは敵陣に真正面から突っ込んでいる状態。どれだけの敵がいるのかも、ましてやどこに潜んでいるのかも、分からない。ユーリさんとレイヴンさんがある程度ザーフィアス城の構造を理解してくれているとは言え、状況は圧倒的に不利だ。大勢の敵に囲まれてしまえばわたしたちはあっという間に掴まってしまうだろう。少しでも戦闘は避けたいし、なるべくなら見つからずに進みたいのが本音だった。
 最初の曲がり角に差し掛かった時、前を歩いていたユーリさんが手を伸ばしてわたしたちを静止させる。息を潜めてそっと曲がり角を覗き込むとさっそくアレクセイの親衛隊を見つけた。あれがユーリさんの言うお出迎えということなのだろう。エステルちゃんの元に辿り着くまで、まだまだ先は遠そうだ。
 わたしたちに背を向けている親衛隊に対してレイヴンさんは静かに弓を構えた。

「まって。誰かいるわ」

 警備の目を潜り抜けてお城の中を進んでいると長い廊下に並んだ内のひとつの扉の前でジュディスさんが足を止める。頭上を見上げると看板らしきものを見つけて、"食堂"と書いてあるのだとカロルくんが教えてくれた。扉に近づいていくとふわっと鼻腔を擽るスパイスの良い香り。これは、カレーだろうか……?
 いや、そんなことよりも扉の向こうに"誰か"がいるのは間違いなくてわたしは壁に身体をくっつけて双剣に手を伸ばす。ただの料理人とかなら良いけど、おそらくその望みはかなり薄いだろう。息を殺して相手が出てくるのを待つ。
 神経を研ぎ澄ますと微かに聞こえる金属音。それは騎士が身にまとう甲冑が動く音にとても良く似ていた。音は次第に大きくなっていきやがて勢いよく扉が開かれる。反射的に身を低くして次の動きに備えたが、目の前に飛び込んできた景色にわたしはぎょっと目を剥いた。転がるように飛び出てきた三人の騎士が勢い余ってそのまま壁に激突したからだ。しかもその三人がわたしの知っている人たちだったから尚更。どうしてこんなところに彼らがいるのだろう。わたしは思わずルブランさんたちに駆け寄った。

「だ、大丈夫ですかっ……!?」
「ユーリ!? ユーリか!」

 突然、耳に届いた懐かしい声にわたしは弾かれたように背後を振り返る。わたしが名前を呼ぶとユーリさんを見ていたその人物がゆっくりとこちらを向いた。服はあちこち破けて顔にもいくつかかすり傷もあったけれど、そこに立っていたのは間違いなくハンクスさんだった。ぐっと目頭が熱くなる。

「ハンクスさん……っ!」

 ハンクスさんだ、本物のハンクスさんだ。
 驚くハンクスさんのことも気にせず勢いよく駆け寄って手を握る。生きているという確証が欲しかった。節くれだった手を握りしめるとほんのりと感じるぬくもり。良かった、生きてる。最初はいきなりのことにびっくりしていたハンクスさんだったけれど、手を掴んだのがわたしだと分かると瞳を細めて微笑んでくれた。

「アズサか。無事でなによりじゃ」
「はいっ、ハンクスさんも……!」
「じいさん、みんな! 無事だったのか!」

 ユーリさんの視線を追いかけると食堂の奥には大勢の下町の人たち。中には傷の手当てを受けている人もいたけれど、特に大きな怪我をしている人はいなさそう。でも、まさかお城の中に逃げ込んでいたなんて。安堵と驚きが混ざりあったまま下町の人たちを見つめていると人の群れをかき分けて子どもが一人駆け寄ってくる。アズサっ! と大きな声でわたしの名前を呼んで腰に抱き着いてきたテッドくんをわたしもぎゅっと抱きしめかえした。

「アズサ久しぶり!」
「うんっ、テッドくんも……!」

 ハンクスさんの話ではルブランさんたちが下町の人たちを誘導してお城の中に避難させてくれたのだという。巨大な植物が襲ってきたのはやはり下町も例外ではなかったらしく危ないところだったとハンクスさんは顔を曇らせる。きっとそれはわたしの想像を絶するような体験だったのだろう。ルブランさんたちは命の恩人だ、とハンクスさんは微笑んだ。対するルブランさんたちはしどろもどろな口調で目線を泳がせていてなんだか様子がおかしい。話を聞くと下町の人たちの誘導は騎士団の指示には含まれていなかったのだという。三人は緊張した面持ちである人物に敬礼をした。自分たちの上司であるレイヴンさん――シュヴァーン隊長に。

「め、命令違反の罰は受けます!」
「我々も同罪なのであーる!」
「我々も同罪なのだ!」
「罰もなにも、俺ただのおっさんだからねぇ。それに市民を護るのは騎士の本分っしょ?」

 よくやったな。
 薄く口元を緩めるレイヴンさんの表情はあまり見たことがないもので、きっとあれがシュヴァーン隊長の表情なのだろうと想像がついた。いつものレイヴンさんとは少し雰囲気が違う。上司からの称賛にルブランさんたちは興奮気味に再び敬礼をしていた。きっとすごく嬉しかったんだろう。その様子だけでシュヴァーン隊長がどれだけ尊敬されていたのかが伝わってくる。

「……こっ光栄であります! シュヴァ……レイヴン隊長殿!」
「隊長ゆーな。俺様はただのレイヴンよ」
「はっ! 失礼しました。ただのレイヴン殿ォ!」

 身体に染み込んでしまった癖というのはそう簡単には消えないものだ。呆れるレイヴンさんと至って真面目なルブランさんたちの微笑ましい光景にくすくすと笑みが零れた。

「よかったね、ユーリ、アズサ」
「うん……!」
「フッ、しぶとい奴らだってのを忘れてた。心配するだけ無駄だったわ」

 口ではそう言っていたユーリさんだったけれど、ちらりと横目に見た横顔はすごく嬉しそうでわたしも嬉しくなる。下町の人たちを誰よりも心配していたのはユーリさんだったから安心したユーリさんの表情が見れて正直ホッとした。これでユーリさんもわたしも、エステルちゃんを助けることに集中できる。
 ルブランさんたちの情報によればアレクセイは御剣の階梯という場所にいるらしい。ただ、そこに向かうには仕掛けを解かないといけないのだという。頬を掻くレイヴンさんにカロルくんは自信ありげにドンと自分の胸を叩いた。

「仕掛けならボクが外す! 術式ならリタがいる。大丈夫だよ!」
「だな。じいさん、あんたらはこのままここで隠れててくれ。行くぜ!」

 再びお城の捜索をするために出発するユーリさんたち。わたしも彼らに続こうとした時、不意にハンクスさんに名前を呼ばれて振り返る。視線がかちあうとハンクスさんはゆっくりと瞳を細めた。眼鏡の奥に映る優しい眼差しが旅立った日のものと重なる。そういえばあの時もこうやってハンクスさんに送り出してもらったんだっけ。随分と遠い記憶のように感じた。わたしはハンクスさんに微笑み返す。

「気をつけるんじゃぞアズサ」
「……はい、いってきます!」


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