014


 抱えた牛乳を落とさないように下町へ続く坂を下ってゆく。ぱたぱたと駆ける度に透明な瓶の中で白い液体が揺れた。
 女将さんに頼まれたおつかい。本当は近場で済ませられたら良かったんだけどちょうど欲しかった牛乳が売り切れで仕方なく市民街まで足をのばすことになった。目的の物を買って何気なく時計台を見れば予想よりも大幅に過ぎていた時間。もうすぐお昼時でお客さんがたくさんやってくる。一人で切り盛りしている女将さんに迷惑をかけるわけにはいかないとわたしは大急ぎで下町に向かった。

「……急がなきゃ」

 レンガ造りの坂をひたすらに下ればやがて見えてくる水道魔導器(アクエブラスティア)。ここまでくればあとは宿屋まで目と鼻の先だ。早足になっていた歩調を弱めてわたしは乱れた呼吸を整える。女将さんの宿屋を手伝うようになってそれなりに体力も戻って来たと思っていたけれど完全に体力が戻り切ったとは言えない。魔物の怪我でしばらく寝込んでいたのが痛手になってしまっているのだろう。

(散歩ぐらいしたほうがいいのかな)

 下町の土地勘もだいぶついてきたと思うし、体力づくりにはちょうどいいかもしれない。なんなら今下っているこの坂を上り下りすぐだけでもそれなりの運動になりそうだな。今度、時間を見つけて試してみよう。なんて考えながら下町の広場を通り抜けようとした時のことだった。

(あれ……?)

 太陽が空のてっぺんまで登り切ったお昼時。普段ならハンクスさんやユーリさん、誰かしら知り合いを見かけるというのに今日は珍しく人通りが少なかった。
 だから余計に目に留まってしまったのだろう。水道魔導器の前で立ち尽くすひとつの人影に。

(……誰?)

 下町で生活するようになってそれなりに人の顔は覚えた。もちろん全員把握できてるとは思ってないけれどそれでもローブを纏っている人は今まで見たことがない。よく見ると何か作業をしているようでその手元は忙しなく水道魔導器に向けられていた。
 そういえば水道魔導器の調子が悪いってハンクスさん言ってたっけ。つい先日も修理してもらっていたような気がするのだけれど、また故障してしまったのだろうか。専門の業者を呼ばないといけないからすごくお金がかかってしまうんだ、とハンクスさんが嘆いていたのを覚えている。もしかしたらあの人は例の修理業者なのかもしれないな。わたしはちょうど魔導器(ブラスティア)から魔核(コア)を抜き取ったタイミングで声をかけた。

「こんにちは、お疲れ様です」

 今になって思えばおかしな点が多かった。いかにも顔を見られないように目深にかぶったフードも、どこか落ち着きなく魔核を抜き取ろうとする行動も、わたしに声を掛けられひどく狼狽える様子も。
 弾かれたように肩を震わせたその人は勢いよくこちらを振り向くとフードから唯一見えていた唇を震わせた。そんなに驚かせてしまったのだろうか。顔が見えず男の人なのか女の人なのか分からないその人の手には碧く輝く魔核が握られていた。わたしにはただの大きなガラス玉のように見えるそれが噴水を動かすエネルギー源というのだからこの世界はとことん異世界なのだと実感させられる。
 業者の人は驚いているのかわたしを見たまま固まっている。てっきり修理をしてると思っていたのだがもしかして違ったのだろうか。口元に笑みを浮かべながらも不思議に思っていると相手が突然自分の身体をわたしにぶつけてきた。いきなりのことにわたしは牛乳を手放すこともできずに、強かに腰を地面に打ちつける。

「いった……」

 ぱたぱたと遠のいていく靴音。ゆっくりと上体を起こした頃にはあの人の姿はどこにもなかった。一体、何だったのだろう。業者の人ではなかったのだろうか。だけど、確かにあの狼狽え方は少し違和感を感じた。まるでいたずらが見つかってしまった子どものような。まるであれは――。
 とにかく、考えるのは女将さんのおつかいを済ませてからにしよう。抱えた牛乳瓶を確認すれば地面に打ちつけなかったお陰で傷もついていない。ホッと安堵の息を吐きながら立ち上がって服についた汚れを軽く払っているとふと横目に水道魔導器が目に入る。蒼い魔核を抜かれたそれはひどく物寂しい感じがした。

(あれ……?)

 水が止まっている。動力源である魔核がなくなってしまったのだから動かなくなるのは当然の話だ。だけど、それだけじゃなくて不自然に周りの水が引いている。下町に張り巡らされた水路から一気に水が引いて水道魔導器に集まっている。嫌なくらいに静まり返る下町。様子がおかしいのは明白だった。ざわざわと胸の奥が騒がしい。なんだろう、なんだか嫌な予感しかしない。
 そう思った刹那、帝都中に響き渡りそうな程の激しい爆音と共に高い水柱が吹き上がる。修理をしていたはずならまず起こらないであろうこの状況。結界魔導器(シルトブラスティア)に届いてしまうんじゃないかと思うくらいに上がる水を唖然と見上げて、ようやくわたしはあのローブを纏った人間がなにかとんでもないことをやらかしていったのだと悟った。


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