015


「アズサっ!? どうしたんだいそのずぶ濡れの格好!?」

 ぽたぽたと首筋に張りついた髪の毛から水が絶え間なく滴る。目を見開きながらこちらに駆け寄ってきた女将さんに全身ずぶ濡れのわたしは曖昧な笑みを浮かべた。全てを説明するにはまだ、わたし自身も整理がついていなかったから。

「えっとちょっと……」
「あーあ、さっきのに巻き込まれちゃったんだね。タオル持ってくるから待ってて」
「すみません、ありがとうございます」

 不幸中の幸いは頼まれた牛乳に被害がなかったことだろう。ガラス製の容器に入ったそれは外側にこそ水を被ってしまったけれど中身に全く問題はない。わたしは軽く手で濡れた髪を絞りながらぼんやりと外を見つめた。下町の広場では今も変わらず水柱が巨大な音を立てて吹き上げている。
 いつもなら忙しいはずのお昼の時間も今の騒ぎで食事どころではないのだろう。お客さんは誰も見当たらない。わたしはカウンター席の一番端の席に座って小さく息を吐いた。試しに服の裾をぎゅっと絞ってみるとどんどん水が零れ落ちていく。これはハンクスさんの家から着替え一式もってこないと風邪を引いてしまうな。

「かあちゃん大変! また水道魔導器(アクエブラスティア)が壊れてるよ……って、アズサどうしたのその恰好!?」

 からんころんと賑やかに扉のベルが鳴る。勢いよくお店に入って来たテッドくんはぽつんとカウンターにいるわたしを見つけて目を丸くした。くりくりとした大きな瞳を見開いて慌てて駆け寄ってくるものだから、親子の遺伝子に密かに口元が緩む。「大丈夫だよ」と笑ってわたしは応えた。
 数枚のタオルを抱えてホールに出てきた女将さんはテッドくんから水道魔導器(アクエブラスティア)の現状について話を聞いていた。わたしも借りたタオルで軽く頭を拭きながら聞き耳を立てる。水柱は今も勢いが全く落ちておらず、ハンクスさんたちが土嚢を積んで応急処置を施しているらしい。それでも水路の水位はどんどん上がっているという。「このままじゃ下町が魚しか住めない街になっちゃうよ」とテッドくんが眉を潜める。

「テッド、フレンを呼んできておくれ」
「うん、分かった!」

 女将さんに言われて大きく頷いたテッドくんは再び下町へと駆け出して行った。フレンさんと言えば、確か、騎士団に所属しているユーリさんの幼馴染だ。前にも水道魔導器が故障した時、修理業者を紹介してくれたのがフレンさんだったと聞いている。下町出身の騎士は少なくて、どうしても何かあるとフレンさんに頼ってしまうことが多いのだとハンクスさんが言っていた。
 テッドくんが市民街に続く坂道を駆けあがっていくのを近くの窓から眺めていると、その視界を突然真っ白なタオルに覆われて「うわっ」と声が漏れる。わしゃわしゃと少し乱暴に髪の毛を乱されて、そこでやっと女将さんに頭を拭かれているのだと気が付いた。次に降ってきたのは女将さんの柔らかい声。

「帰ってくるのが遅かったから心配してたんだよ。まあ、アズサにおつかい頼んだのは他でもないあたしなんだけど」
「……下町で買えれば良かったんですけど売り切れてしまってたので市民街まで言ってたんです。まさか、こんなに時間がかかるとは思ってなくて」

 前の世界ではいくらでも連絡手段があったから、ちょっと油断していた。この世界には電話もメールも存在していない。人から人へ、直接の伝達だけが唯一の手段だったというのに。わたしも一言女将さんに伝えてから市民街に向かうべきだった。「すみません」と小さな声で謝ると不意に髪を拭いていた手が止まる。ぐしゃぐしゃになった髪の隙間から恐々と女将さんを見上げると目尻の下がった瞳と視線がぶつかった。

「そういうことならいいんだ。わざわざありがとね、アズサ」

 てっきり怒られると思っていた。予想とは全然違った表情にわたしは困惑する。迷惑をかけてしまったのはわたしの方なのに、どうして女将さんがそんな表情をするのだろう。戸惑うわたしに女将さんは口元を緩めるとその手をタオルの上に乗せた。髪を拭いていた時とは全然違う優しい手の動きにわたしはまた困惑する。多分、頭を撫でられているんだと思う。

「お、女将さん……?」

 躊躇いがちに名前を呼んでみても笑みが深まるばかりでひたすらに頭を撫でられる。ユーリさんといい、女将さんといい、この世界の人たちは他人の弾を撫でるのが好きなのだろうか。じわじわと身体の熱が顔に集まってくるような感覚に堪らず視線を下に落とした。頭を撫でられるなんて子どもの頃以来でどうにも気恥ずかしい。だけど、振り払うこともできないでそのまま撫でられ続けているとようやく満足したのか女将さんの手が離れていく。

「それにしてもまた故障かい。この前修理してもらったばかりなのにね」

 大きなため息を吐いて肩を竦める女将さん。その視線は外の水道魔導器に注がれていてわたしもそれを追いかける。故障……と言っていいのだろうか。わたしの脳裏に蘇るのは今しがた起きた一連の出来事。水柱が現れたのはあの人が魔核(コア)を抜いたからだ。最初は修理業者なんだと思っていたけれど先程の態度は少し疑問に思うところがある。やけに心臓がうるさいと思うのはわたしの気のせいなのだろうか。

(……わたしは、)

 もしかしたら、水道魔導器をおかしくした張本人をみすみす取り逃がしてしまったのかもしれない。


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