016


 女将さんからタオルを借りたはいいものの、到底乾ききらなくて結局わたしは宿屋のシャワールームに放り込まれた。着替えもいつのまにか女将さんが用意してくれていて本当に申し訳なくなる。「もうあたしには小さくて着れないから」と渡してくれた若草色のワンピースは少しだけ着丈が長かったけれどベルトで締めてしまえばそこまで気にならない。髪もあらかた乾いたところでわたしは再び下町へと繰り出した。
 決壊した水道魔導器(アクエブラスティア)の周りにはたくさんの人だかりができていて事の重大さを思い知らされる。ザーフィアスの外へと流れる水路にはいつもより多くの水が流れていた。あの水は下町の人たちが生活するために必要な大切な資源だというのに。制御の利かなくなった水道魔導器はその全てを絶え間なく結界の外に放出してしまっていた。
 
「じいさん、魔核(コア)見なかったか? 魔導器(ブラスティア)の真ん中で光るやつ」

 呆然と水道魔導器を眺めていると聞き慣れた声が聞こえてハッと意識を戻す。なんとか溢れ出る水を食い止めようとハンクスさんたちが土嚢を積み上げている中、たった一人だけ水道魔導器を注意深く観察していた人物がいた。背中まである艶やかな紫黒の髪。ぴくっと眉が反応する。

「ん、さあのう? ……ないのか?」
「ああ。魔核がなけりゃあ、魔導器は動かないってのにな。最後に魔導器触ったの、修理に来た貴族様だよな?」
「ああ、モルディオさんじゃよ」

 モルディオ。その人がわたしがさっき水道魔導器の前で見かけた人物なのだろうか。貴族にしては質素な服装だったと思ったけれど、それも下町に紛れるための恰好だったのかもしれない。下町で上質は服は目立ってしまうから。
 仮にユーリさんの話が本当なのだとしたらあの人が魔核を持っていってしまったせいで今の事態が起きているということになる。ということは、やはりわたしが見かけたのはかなり重要な人物だったのではないだろうか。きゅっとわたしは胸の前で手を握りしめる。そうしないと手の震えが治まらなかった。

「……あの、ハンクスさん」
「ん? 危ないから下がっていろアズサ」

 わたしの声に気が付いたハンクスさんが振り返る。その瞳には若干の疲労が見えて申し訳ない気持ちでいっぱいになった。わたしがあの時の違和感にもっと早く気が付いていたら状況は違ったかもしれないのに。
 ハンクスさんに名前を呼ばれるとユーリさんも反応してこちらを向く。髪の毛の色と同じ紫黒の瞳がわたしを捉えて思わず身体が強張った。視線が集まるとより緊張してしまう自分の性格が憎い。勇気を振り絞って出した声は案の定小さかった。

「わたし……そのモルディオって人、見たかもしれないです」
「どういうことだ?」
「さっき、水道魔導器の前に人がいて……その人が魔核を持っていたのを見ました」

 あの人がモルディオさんとは限らないが、水道魔導器の魔核を持っていた人物がいたことは間違いない。ユーリさんの表情が途端に硬いものに変わる。それからユーリさんはモルディオさんの容姿について詳しく聞いてきたけれど、相手がローブを纏っていて顔はほとんど見えなかったことを伝えると少し考え込むように瞳を伏せた。

「――そいつがどこいったか分かるか」
「はっきり見たわけじゃないんですけど……多分、市民街の方に逃げたと思います」

 突き飛ばされたせいではっきりと見たわけではないけれど市民街と結界の外に向かう道は真逆に位置している。靴音の聞こえた方角から推測するとおそらく逃げたのは市民街の方だろう。指を差すとユーリさんの視線もそちらに向く。
 "箒星"を手伝っていると何かとユーリさんの話題は出やすい。それだけ彼が有名人だという証拠だ。なんでも彼は下町では用心棒のようなことをしているらしく、理不尽な権力を振るってくる騎士団を追い払うのはいつもユーリさんがやってくれるのだとか。それゆえに騎士団に掴まって何日か帰ってこないこともあったらしい。ユーリさんは正義感の強い人なのだろう。だから今回もユーリさんの起こす行動はなんとなく予想がついた。

「……悪い、じいさん。用事思い出したんで行くわ」
「待て、待たんか! まさかモルディオさんのところへ行くのではあるまいな」

 きっとハンクスさんもわたしと同じような考えにいきついたのだろう。迷いなく市民街に向かって歩き出したユーリさんにハンクスさんは声を荒げる。付き合いの長いハンクスさんがそう言っているのだから、ユーリさんはモルディオさんを探しに貴族街へ向かうのだろう。振り返ったユーリさんは悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。

「貴族様の街に? オレが? あんな息詰まって気分悪くなるとこ用事があっても行かねえって」

 多分、嘘だ。ひらりと手を振るユーリさんの足は間違いなく市民街に向かっている。止めても無駄だと分かっているからハンクスさんもため息を吐くことしかできないのだろう。

「また無茶せんといいが……」

 ハンクスさんが心配するのも無理はない。モルディオさん、すぐに見つかるといいけど。
 小さくなっていく紫黒の背中。それを静かに見つめていると不意に振り返ったユーリさんと視線がぶつかって肩が跳ねた。

「ありがとなアズサ、助かったわ」
「……い、いえ」

 ユーリさんにお礼を言われるようなことなど全然していない。むしろ目の前にいた泥棒を見逃してしまうような愚か者だ。
 慌てて首を横に振って否定したけどユーリさんは口元を緩めただけ。そのまま振り返らずに市民街へと向かってしまった。
 不意に足元で水の跳ねる音がして視線を下に落とせば先ほどよりも随分と水位が上がっている。このまま水が放出し続ければテッドくんが言ってた通り、本当に下町は魚しか住めない街になってしまうかもしれない。わたしはハンクスさんの名前を呼んだ。

「何か、お手伝いできることありませんか?」
「すまんなアズサ。そこにある土嚢を運んでくれんか」
「分かりました」

 眉を下げて笑うハンクスさんにわたしもできるかぎりの笑みを浮かべる。とにかく今は自分に出来ることをしよう。まだわたしの見た人がモルティオさんだと確定したわけでもない。落ち込むのはハンクスさんの手伝いをしてからでも遅くはないはずだ。
 気持ちを切り替えて土嚢を運ぼうとした時のことだった。
 
「――本当はお前が盗んだんじゃないのか」

 あまり、耳に入れたくない言葉が届いたのは。


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