018


 くるくると鳴ったお腹の音で意識が覚醒する。そういえば部屋に引きこもってからろくに水すら飲んでいなかったことを思い出した。そっとベッドの中から顔を出して近くの窓を見ると既に朝日が昇っている。結局、昨日は泣き疲れてそのまま寝てしまったみたいだ。泣きすぎたせいか心なしか頭も少し痛い。
 上体を起こしてまだ覚醒していない頭でぼんやりと外を眺めているとこんこんという控えめなノック音が聞こえた。相手が誰なのか分かっているはずなのに、びくりと肩が震えてしまう自分が嫌になる。

「……アズサ、起きているか?」

 扉の向こうから聞こえてくる声はいつもより元気がない。わたしの脳裏には最後に見たハンクスさんの顔が浮かんでいた。あれは、わたしへの信用が崩れ始めている時の表情だった。まだ、疑われているのだろうか。

(やっぱり、疑われているんだろうな)

 起きてはいるけれど返事をするのが怖い。手繰り寄せたシーツの音がハンクスさんの耳にも届いたのだろう。しばらくすると扉の向こうから再び声が聞こえた。

「昨日から何も食べていないだろう。テーブルに朝食があるから食べなさい」

 わしは出かけてくるからの。
 そう言って、扉の前からハンクスさんの気配がなくなった。玄関の扉が閉まった音を聞いて自分が一人になったのを確信すると、そのままベッドに身を投じた。枕に顔を埋めると昨日流した涙が枕に染み付いていた。

「…………さいてい」

 居候の身で宿主を無視するなんて何様のつもりなんだろう。ハンクスさんは何も悪くない、悪いのは完全にわたしだ。間近で犯人を見ておきながらまんまと逃がしてしまった自分の責任なのだから。怪しまれても仕方がない状況で最後まで自分の無実を主張できなかったわたしの意思の弱さの問題だった。
 くるくるとさっきより大きなお腹の音が鳴る。身体が胃に食べ物を入れろと主張する。このまま何も食べなかったら流石に支障をきたすかもしれない。それにせっかくハンクスさんが用意してくれたのだから食べないのも申し訳ない。のろのろと起き上がってブーツに足を入れる。本当はすぐにでもご飯を食べたかったけれど。まずは顔を洗おうとリビングを抜けて洗面台へと移動した。鏡に映った自分の顔を見て思わずため息が零れた。

(ひどい顔)

 泣きはらしたせいで瞼はぱんぱんに腫れて、顔の輪郭も普段よりむくんでしまっている。化粧用具も持ってないから隠すこともできない。指先で触れた頬に触れて二度目のため息を吐く。まあ何もしないよりはマシだろうと蛇口を捻るが何故だか水が出ない。頭に疑問符を浮かべながら考えて、そして気が付く。そうだった。水道魔導器(アクエブラスティア)が壊れてしまったから使えないのか。それもわたしが魔核(コア)泥棒を逃がしてしまったから……。
 行き場のない感情を堪えるようにわたしは前髪をくしゃりと握りしめて三度目のため息を吐き出した。

***

 トーストとハムエッグ、それからドレッシングのかかったサラダ。ハンクスさんが用意してくれていた食事を前に両手を合わせて「いたたきます」と小さく呟く。テルカ・リュミレースではあまり慣れ親しんだ所作ではなかったようで不思議そうにハンクスさんに意味を聞かれた。まさかこんなところで事情がバレるわけにもいかないと必死にごまかしてからは人前ではやらないようにしてきたのだけれど、習慣というのは本当に恐ろしいもので意識していないとつい体が動いてしまう。
 用意されていたフォークで野菜を刺して口に運ぶ。少し酸味の効いたさっぱりとしたドレッシングは女将さん直伝のレシピなのだとハンクスさんが教えてくれた。

(おいしい)

 今まで当たり前のように食卓に並んでいた食材もこの世界では手に入らないことも多い。その反対も然りで見たこともない食べ物が食卓に並ぶこともあった。食習慣に慣れるというのは思っていたよりも大変で、最初は喉を通らない日も多かった。でも、今では大抵の料理は食べることが出来るしなんなら作ったりすることもできる。根気よく食材に触れさせてくれたハンクスさんや女将さんの賜物だ。たとえばこのハムエッグのハムも豚肉ではなくブウサギという生き物の肉が使われているらしい。一度だけ市民街で見かけたのを女将さんに教えてもらったことがあるのだが、あれは豚というべきかウサギというべきか……不思議な生き物だった。
 空っぽになった食器を前にもう一度、両手を合わせる。「ご馳走様でした」と、誰にいう訳でもなく小さく呟いて食器をシンクに持っていく。いつもならこの後は"箒星"で女将さんのお手伝いをするはずなのだが、昨日の今日で立ち直れる程……わたしは出来た人間ではない。

(……行きたくないなあ)
「邪魔するぜ」

 突然、玄関から聞こえてきた低い声にわたしの肩は小さく跳ねる。誰だろう、こんな時間に。正直言って、人様の家に訪問するにはいささか早すぎる時間帯。ハンクスさんが溜めてくれていた水で顔を洗っておいて良かった。慌てて持っていた食器をシンクにおいて軽く身なりを整えてぱたぱたと客人を迎えに行く。よっぽどハンクスさんに急ぎの用事があったのだろうか、なんてぼんやりと考えながら玄関に向かうと視界に映った人物にわたしは目を丸くした。

「ユーリさん……?」
「よう」

 玄関の扉に寄り掛かっていたユーリさんはわたしを見て軽く手を上げる。とりあえず「おはようございます」と言って挨拶をしたはいいもののそこから会話が途切れてしまった。困ったな、ハンクスさんが何処に向かったのか分からない。

「えっと、すみません。ハンクスさんさっき出かけちゃってわたしどこに行ったのか知らないんですけど、」
「アズサ。お前さ、結界の外って興味ある?」
「……はい?」

 てっきりハンクスさんに用事があるのだと思っていたわたしはユーリさんが放った言葉を上手く呑み込むことができなかった。


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