019


 ユーリさんの突拍子もない問いかけにわたしはたっぷり時間を置いた後におそるおそる口を開く。ユーリさんがわたしに用事があることにも驚いたし、なによりも彼の質問の意味を汲み取ることが出来なかったから。

「えっと、どうしてでしょうか……?」
「悪い、アズサ。あんまり時間がないんだ」

 そんな前置きから始まったユーリさんの話は昨日の魔核(コア)泥棒に関することだった。
 水道魔導器(アクエブラスティア)の魔核がなくなっていることに気が付いたユーリさんはあの後、貴族街に住んでいるというモルディオさんの屋敷に向かった。結局、モルディオさんが怪しいと睨んだユーリさんの予想は的中。わたしが見た人物は本当に魔核泥棒だった。ところがあと少しのところでモルディオさんを取り逃がしてしまったらしく魔核も取り戻すことが出来なかった。魔核がなければ魔導器も動かすことはできない。今は残った水で生活を凌いでいるがそれも底を尽くのは時間の問題だという。
 そこで、ユーリさんは結界の外にあるアスピオという街に向かうことにしたらしい。なんでもその街にモルディオさんの家があるのだとか。それにわたしも同行して欲しいのだという。しかも、今すぐに。

「モルディオの奴見てるのアズサだけなんだわ。ついてきてくれると助かるんだけど」
「そう、だったんですね。でも……」

 結界の外と言われて咄嗟に脳裏に蘇るのは魔物に襲われた時の恐怖。無意識に噛まれた腕に手が伸びていた。
 ユーリさんについていくということは決死の思いで逃げのびたあの場所にもう一度足を踏み入れなければならない。わたしは僅かに視線を下に落とす。

「わたし、モルディオさんの顔をはっきり見たわけじゃないんです。ローブを纏っていたから背格好もほとんど分からないし……とてもユーリさんの力になれるとは思えません」
「相手はアズサの顔を見てるんだ。会えばそれなりの反応はするかもしれないだろ」
「それは、そうかもしれませんが……」

 言葉がだんだんと小さくなってしまうのはどうしても昨日の出来事を思い出してしまうから。あの時、わたしがもっと早く違和感に気が付いていればユーリさんに魔核泥棒の特徴を伝えられたかもしれない。それどころか魔核が盗まれることもなかったかもしれない。昨夜からそんな自問自答をずっと繰り返している。
 いつまでも過去の失敗を引きずって良かったことなんて一度もないと分かり切っているのに。どうしても「ああすれば良かったんじゃないか」「こうすれば結果は変わったんじゃないか」と考えてしまうのは自分の悪い癖だ。そうして自分の世界に閉じこもってしまう。

「無理にとは言わない。決めるのはお前だ」

 今すぐにでも出発したいと言っているのだからゆっくり考える暇はないのだろう。それでも、今までの出来事を矢継ぎ早に話したユーリさんの最後の言葉だけはなぜだかゆっくりと聞こえた。わたしはユーリさんの言葉を心の中で繰り返す。

(決めるのは、わたし……)

 下町を飛び出すのも、下町に残るのも、すべてわたし次第。

「じいさんにはモルディオのことは言ってある。だからもうアズサが疑われることはない。けど、それだけじゃ面白くねえだろ?」

 悪戯っ子のような顔をして笑うユーリさんの言葉の意味が理解できない程、わたしも馬鹿ではない。魔核泥棒を捕まえてハンクスさんたちに突き出してやりたい気持ちだって本当はちょっぴりある。けれど、その為には結界の外に出ないといけない。わたしには魔物と対峙しても自分の身を守る術がない。そうなるとどうしてもユーリさんの負担になってしまう。そのことを聞くとユーリさんは「ラピードもいるから気にすんな」と意外にもあっさりとした返事。どうやらユーリさんにとってはわたしが同行することは大した問題ではないらしい。
 結界を一歩飛び出してしまえばそこはきっと弱肉強食の世界だ。ろくに戦えもしないわたしのような弱者はあっという間に強者に飲み込まれてしまうだろう。全く恐怖心がないと言えば嘘になる。わたしはちらりとユーリさんを見上げる。

(……でもユーリさんとなら、)

 この世界の――ゲームの主人公であるユーリ・ローウェルとならなんとかなるかもしれない。そう、思ってしまったのだ。わたしは瞳を伏せて深く息を吸う。唇に乗せた言葉は自分が思っていたよりも力強かった。

「――行きます。一緒に行かせて下さい」
「そうこなくっちゃな。今すぐ行けるか?」
「大丈夫です」

 元々、身一つで異世界に迷い込んでしまった人間だ。ここに置いていくものはボロボロになってしまった学校の制服と使えなくなってしまったスマホぐらいしか残っていない。わたしは自分が使わせてもらっている部屋に視線を滑らせる。一瞬持っていくことも考えたけどどうせ荷物になってしまう。ハンクスさんには申し訳ないけれど、戻ってくるまではしばらく置かせてもらおう。アスピオという街に行って魔核泥棒を連れて戻ってくるだけだ。そんなに長旅にもならないだろうし。
 再び下町へ踵を返すユーリさんの背中を追いかけようとしてブーツの紐が緩んでいたことに気づききつく結び直す。

(…………よし)

 正直、昨日の今日で下町の人たちに会うのは怖い。ユーリさんは説得したとは言ってくれたけれど、それでも下町の人たちの疑念が払拭されたとは考えにくい。きっとまだわたしのことを疑っている人はいる。
 それなら証明してしまおうと思った。本物の魔核泥棒を捕まえて水道魔導器の魔核を取り戻せば少しはわたしを信用してくれる人が増えるかもしれないと。ブーツの爪先で軽く床を叩いてわたしはハンクスさんの家を出る。

 そう、きっかけは本当に些細なものだった。些細なものだと思っていた。
 まさかこれが物語の始まりだったなんて当時のわたしは微塵も思っていなかったのだ。


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