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 下町は昨日とはうって変わって静寂に包まれていた。あれだけ巨大な水柱を放出し続けていた水道魔導器(アクエブラスティア)が今日は完全にその姿を消してしまっていた。周りは土嚢で埋め尽くされ、その中には生活水として大量の水が溜められていたけれど満足に使うにはおそらく全然足りない。以前に水道魔導器が壊れた時はすぐに修理してもらってから生活にはそれほど困ったりしなかったけれど、今回はそういうわけにもいかない。わたしは沈黙する水道魔導器を見て眉を潜めた。
 そもそもモルディオさんは何のために魔核(コア)を盗んだのだろう。下町への嫌がらせだったのだろうか。貴族街の人たちと下町の人たちの仲の悪さは折り紙付きだ。でも、貴族街の魔核も盗まれていたとユーリさんが言っていたから下町だけの悪戯とは考えにくい。魔導器(ブラスティア)ひとつなくなっても財に恵まれた人たちは全く気付いてもいなかったとユーリさんは肩を竦めていたけれど。

「駄目だ駄目だ! アズサを結界の外に連れ出すなど許さんぞ!」

 怒気を含んだハンクスさんの声にハッと意識を戻すと水道魔導器の近くでハンクスさんとユーリさんが揉めていた。うっすら耳に届いたわたしの名前から想像するにきっとわたしの話なのだろう。静かに二人のもとへ近づくとハンクスさんがわたしの存在に気づいて眼鏡越しに目を見開く。複雑な感情が混ざり合った瞳がぶつかったかと思うとそれはすぐにユーリさんに戻された。

「アズサは結界の外で辛い思いをしているのだぞ」
「でもじいさん、決めたのはアズサなんだぜ」
「……本当なのか? アズサ」

 ちらりとこちらを伺うハンクスさんの眼差しは優しく、わたしを心配してくれている気持ちが十分に伝わってくる。本当にありがたい話だ。見ず知らずの人間に衣食住を揃えてくれてここまで気にかけてくれるなんて。
 だからこそ、わたしも自分に出来ることをしたい。魔核泥棒探しはその一歩なんだと思った。

「――下町の方々にはとても良くしていただきました。わたし、その恩返しがしたいんです。魔核泥棒を捕まえることで下町の助けになるのならユーリさんについていきたいです」
「だがな、アズサ。結界の外は本当に危険なんだ。いくらユーリが一緒にいるからといって安全は保障されない」
「ひでぇなじいさん。オレ、信用無しかよ」
「わしはアズサに聞いているんだ。ユーリはだまっとけ」
「ハンクスさん……」

 なかなか首を縦に振ってくれないハンクスさんにどうやって納得してもらうか考えあぐねていると、突然耳に届いたユーリさんの名前を呼ぶ叫び声。あまりの大きさに思わず肩を震わせながら声が聞こえた市民街の方を向くとがちゃがちゃとなんだか騒がしい足音が聞こえる。その無駄に大きく賑やかな声はどこかで聞き覚えがあった。あの声は、確か。

「ルブラン、さん?」
「ま、こういう事情もあるから、しばらく留守にするわ」
「ユ、ユーリさん、こういう事情って……?」
「あーあとで説明するわ」

 ルブランさんは騎士団に所属している騎士だ。多分、ユーリさんがまたひと悶着起こしたのだろう。魔核泥棒を探しに行かないかと誘われた時、時間がないといっていたのはこのことだったのか。詳しい事情は後から聞いた方が良さそうだ。

「やれやれ、いつもいつも騒がしいやつだな。これで金の件に関しては貸し借りなしじゃぞ」
「年甲斐もなくはしゃいでぽっくりいくなよ? 行くぞアズサ」
「は、はいっ」

 次第にどんどん大きくなってくるルブランさんの声。ユーリさんは一瞬だけ市民街の方に目を向けるとそのまま結界の外へ続く道へと走り出してしまった。最早、ハンクスさんを説得している余裕もないようだ。後ろ髪を引かれながらも自分も走り出そうとしたその時、不意にハンクスさんに名前を呼ばれて足を止める。振り返ると怒っているような困っているような、複雑な表情をしたハンクスさんがいた。

「ハンクスさん……?」

 こわごわと名前を呼べば、真一文字に結ばれていたハンクスさんの唇がゆっくりと動く。

「――絶対に無茶はするんじゃないぞ。何かあったらユーリを頼れ。いいな?」
「……はい、ではいってきます。すみませんが女将さんにも連絡お願いします」
「ああ、任せておきなさい」

 目尻を下げて微笑むハンクスさんに自然とわたしも笑みが零れた。ハンクスさんと気まずいまま下町を出るのは避けたかったら少しでも話が出来て良かった。今朝まであんなに落ち込んでいた心も少し和らいだ。
 女将さんやテッドくん、他にも下町でお世話になった人はたくさんいる。その中でもハンクスさんは格別だ。わたしが下町で暮らせていけているのはほとんどハンクスさんのお陰と言ってもいい。本当に感謝してもしきれないほどの恩がある。少しでもハンクスさんの助けになりたい。その為にもなんとしても魔核は取り戻さないといけない。
 わたしは深く深くハンクスさんに頭を下げてユーリさんの後を追いかけた。

「あ、待ってください!」
「?」

 ユーリさんの背中を必死に追いかけていると不意に隣から可愛らしい女の子の声が聞こえてわたしは視線を横にずらした。下町では見かけたことがない子だった。桃色の髪を綺麗に切りそろえた女の子はわたしの視線に気が付くとにこっと微笑む。ふわりといい香りが香ってきそうな気品のある女の子。一体、誰なんだろう。ユーリさんの知り合いなのだろうか。

「わたしも一緒に行くことになっているんです。よろしくお願いします」
「あ、はい、よろしくお願いします……?」

 結界の外まであと少し。いつの間にかラピードも加わって三人と一匹で下町を駆け抜けていると背後でルブランさんの怒鳴り声が聞こえる。ちらりと後ろを見れば下町の人たちがルブランさんたちを囲って行く手を遮っていた。これならしばらくはルブランさんたちも追いかけてこられないだろう。心の中で安堵の息を吐きながら再び前を見据えてわたしはぎょっと目を見開いた。何故かわたしたちの進行方向には下町の人たちが束になって待ち構えている。
 多分、これもユーリさんの為なんだろうけどはたして逃がす本人をもみくちゃにする必要はあるんだろうか。

「……って、ちょ、押すなって! 今、叩いたやつ覚えとけよ!」

 人混みの中、ユーリさんの声こそ聞こえたけれどわたし自身ももみくちゃにされてユーリさんがどんな状態になっているのかさっぱり分からなかった。ようやく抜けた頃にはユーリさんの手にはお金や地図といったたくさんの差し入れで溢れかえっていた。これもユーリさんの人柄故なのだろう。知らない間にわたしも服のポケットにお金が突っ込まれていたみたいでちゃりちゃりと硬貨同士がぶつかるのが分かった。
 ようやく結界魔導器(シルトブラスティア)の境界も見えてくると久しぶりに間近で見る外の世界に僅かに緊張が走る。覚悟はしていたはずなのにいざ目の前に立ってみるとやっぱり怯んでしまう自分がいて握り込んだ手のひらに力がこもる。
 けれど、後戻りはもうできない。震える指先を握りしめてわたしは結界の外へ駆け出した。


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