023


「平原を越える別の道? さぁ、聞いたことないな」
「そうですか ……ありがとうございます」

 デイドン砦に騎士が多いのはどうやらユーリさんを追いかける為ではなく、砦の向こうに魔物の群れが現れて警備体制をしいているかららしい。中には一刻も目的地に着きたいからと砦を抜けようとした猛者もいたらしいけど、大抵の人は群れがいなくなるまで待機しているのだと商人のおじさんが教えてくれた。馬車にたくさんの荷物を積んでいる商人は逃げるのも大変だろう。当然の行動だと思った。
 砦を通り抜ける以外にハルルへと向かう道はないのだろうか。そう思ってユーリさんたちと別れて情報収集をしているけれど、現時点で有効な情報は得られていない。落胆していたのが分かりやすく顔に出てしまっていたようで、商人のおじさんは「協力できなくてすまないねぇ」と目尻を下げた。わたしは慌てて笑顔を取り繕って「いえ、ありがとうございました」と頭を下げて踵を返した。そろそろユーリさんたちのところに戻ろう。

(エステルさん、がっかりするだろうな)

 緩やかな坂道を上っていると横目に映るたくさんのテント。そこは騎士たちの休憩所にもなっているらしい。一応、フレンさんの姿を探してみたけれどそれらしき姿はなかった。
 わたしとユーリさんもあまり時間があるとはいえないけれど、エステルさんはそれ以上にデイドン砦を抜けることにこだわっていた。よほどフレンさんに早く会わないといけない理由があるのだろう。有効な手立てがないと分かったら落ち込むだろうな。エステルさんの悲しげな表情が目に浮かぶ。
 手当たり次第に聞き込みはしてみたけれど、良い情報はひとつもなかった。魔物の群れが近くに迫っていること、そしてデイドン砦以外に平原を抜ける道はないということ。大人しく魔物の群れが立ち去るのを待つしかない、と色んな人に言われた。
 とぼとぼと俯き加減で集合場所である大きな門の前に向かう。緩やかな坂道を上っていると、ふと頭上が陰った気がしてわたしは視線を持ち上げた。誰かが立っている。燃えているような赤い瞳に真っ白な長い髪。どこか異質な雰囲気をまとった男の人は息を呑むほど真っ直ぐにわたしを見下ろしていた。

「――お前は"何処"から来た」
「え?」

 薄い唇から乗せられた言葉が自分に向けられたものだと理解するのにしばらく時間がかかった。脈絡のない質問……そのはずなのにやけに"何処"という言葉が胸に引っかかる。まさか、そんなはずはない。あんなにお世話になったハンクスさんにすら話したことないのに。ましてやこの人とは初対面のはず。頭の中では分かっているのに何故か心臓を鷲掴みされたかのような息苦しさを感じた。
 僅かに細められた切れ長の瞳を見てわたしは思わず視線をそらす。正直言って、真正面から嘘を貫き通せる自信がなかった。わたしは震えそうになる唇をゆっくりと開く。

「……ザーフィアスから、」
「違う」
(なんで、どうして……) 
 
 どうしてこの人はわたしのことを知っている?
 人違いかもしれないという思考にはならなかった。声色があまりにもはっきりとしていたから。かつん、と靴音が聞こえて身体が強張る。知らない人なのだから無視してさっさと通り過ぎてしまえばいいのにどうしてか指一本動かすことができなかった。どくんどくんと心臓の音がやけに耳について気持ち悪い。顔は怖くて上げられなかった。
 やがて音が止まると今度はほっそりとした指がわたしの顎に添えられ持ち上げられる。抵抗は、できなかった。否応なしに視線がぶつかる。感情の読めない無機質な紅い瞳が静かにわたしを見つめていた。ぞわっと背筋に冷たいものが走る。
 この人は、何者?

「――不安定な存在だな」
「……」
「これも均衡の歪み故、か……」

 長い睫毛が伏せられ、瞳にほんの少しだけ陰りが映る。最後に呟いた言葉はほとんど独り言に近いような小さな声だった。
 とにかく、今はこの人と深く関わってはいけない。本能がそう叫んでいた。顎に触れた指が離れたことに気が付くとわたしは即座に距離を取る。また、変な質問を嘆かれられるのではないかと身構えたけれど、赤い瞳はもうわたしを捉えることはなくどこか遠くを見つめていた。けれど立ち去ってくれる雰囲気もなくてどうやってこの場を切り抜けようかと考えていると突然辺り一帯に響き渡る忙しない鐘の音。それからどこからか聞こえる人の叫び声。自然と意識は男の人から逸れていた。

(な、なに……?)
「なにやってるんだお嬢ちゃん!」

 切羽詰まった声と共に背後からぐいっと腕を引っ張られて身体が後ろに下がる。びっくりしながら肩越しに振り返るとさっきの商人のおじさんが焦った表情でわたしの腕を掴んでいた。

「何かあったんですか?」
「出たんだよ!」
「あのっ、出たって何が、」
「魔物だよ! 魔物の群れが襲って来たんだ! お嬢ちゃんも早く安全な場所に逃げなさい!」

 脳裏に焼き付いて離れない殺気に満ちた瞳と鋭い牙。たった一匹ですらとてつもない恐怖に襲われたというのにあんなのが群れで来られたらと思うと背筋が凍る。
 次第に地面から小刻みの振動が伝わってくる。それだけ魔物の群れが近くまで迫ってきている証拠だ。結局、わたしはおじさんに引っ張られながら坂道を下ってテントが張られた休憩所まで引き戻していた。休憩所についた頃はまだ周りの人たちもパニック状態になっていたけれど、次第に落ち着きを取り戻して各々のテントに戻っていく。わたしを引っ張ってくれたおじさんもご家族の安否を確かめるために奥にあるという自分のテントに向かっていった。

「色々とありがとうございました」
「気にしないで。お互い無事で良かった」

 一応、休憩所は一通り見てみたけれどユーリさんたちの姿は見つからなかった。騎士に追われてる可能性があるならあまり近づきたい場所ではないだろう。ここには騎士団のテントだってあるのだから。そうなると必然的にユーリさんたちがいる場所は坂道の上の門の近くということになる。……二人とも無事だといいんだけど。

(そういえば、あの人……)

 あんなに目立つ綺麗な白髪の人だったからすぐに見つけられるだろうと思っていた。けれど、どれだけ休憩所を見渡してもさっきの男の人が見たらない。どこか別の場所に避難したのだろうか。注意深く目を凝らしても人混みの中にあの紅い瞳は見つけられなかった。


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