025


「――っ、……――アズサっ!」
「……え?」

 遠ざかっていた意識を持ち上げると、眉間に皺を寄せたエステルさんがわたしの顔を不安げに覗き込んでいる。どうしてエステルさんがそんな顔をしているのか分からなかった。戸惑いながら「どうかしましたか……?」と尋ねると翡翠色の双眸がますます細められて眉間の皺が更に深くなる。

(どうしたんだろう……)

 不思議に思っているとエステルさんの手がおもむろにわたしの手を包み込んだ。ほんのりと伝わるぬくもりが心地よい。

「それはわたしの台詞です」
「……?」
「さっきからずっとぼんやりしていますよ、アズサ。大丈夫ですか? 具合悪いんじゃないですか?」

 ずいっと寄せられたエステルさんの顔が視界いっぱいに広がる。エステルさんの言うとおり多少ぼんやりしていた自覚はあるけれど、それは考え事をしていたからで具合が悪いとかではない。なんだか奇妙な状況になってしまったな、なんて考えていただけで。
 ほんの少しの躊躇いを肯定と捉えられてしまったのか、クオイの森で出会った少年――カロルくんもわたしを見上げて驚いたような声を上げる。

「え、そうなの? それなら休憩しながら進んだ方がいいんじゃない?」

 確かに、疲れが全くないかと言われれば嘘になる。下町を出て、デイドン砦、クオイの森へと来るまでまともな休憩は取れていなかった。一応、クオイの森に入ってすぐに食事は出来たけど、エステルさんが意識を失って倒れてしまったのもあってあまり気も休まらなかった。倒れた当の本人はいたってけろりとした表情でわたしのことを心配してくれているけれど。しかも、ここは魔物がどこから飛び出してくるかも分からない森の中。それならさっさと森を通り抜けてハルルの街に辿り着きたいのが素直な気持ちだった。
 わたしは口元の両端を持ち上げて首を横に振る。

「……大丈夫ですよ。ちょっと考え事してただけなので」

 それにのんびり休憩しながら進んでいたらせっかくアスピオにいるはずの魔核(コア)泥棒だってどこかに逃げてしまうかもしれない。エステルさんだって早くハルルの街でフレンさんに会いたいだろうし、ゆっくり進むのは得策ではないだろう。心配そうにわたしの顔を覗き込むエステルさんにひたすら「大丈夫」と主張すれば彼女はしぶしぶ掴んだ手を放してくれた。

「アズサがそこまで言うならいいんですけど……」
「無理しちゃダメだよアズサ」
「心配してくれてありがとうございます、二人とも」

 まだエステルさんから不安げな表情は消えなかったけれど、ひとまずは納得してくれたみたいで密かに安堵の息を吐く。二人の話題はいつの間にかハルルの樹を守っているという大きな樹の話に変わっていた。結界魔導器(シルトブラスティア)がどうとか、植物の融合がどうとか。わたしには到底理解するのが難しそうな話だったのでエステルさんたちの会話を静かに見守っていると不意に頭上が陰って俯いていた顔を上げる。わたしの背後にはユーリさんが立っていて薄い唇を真一文字に引き結んでいた。

「あの、ユーリさん……?」
「本当に平気なんだな?」

 ただ、一言だけ。わたしにしか聞こえない程の小さな声で問いかけてくるユーリさんにうっすらと笑みを浮かべる。優しい人だな、ユーリさんは。
 ――本当のことを言えば、すごく体は重い。若干、頭痛も感じている。下町を出てからずっと緊張していたせいなのか、それともさっきカロルくんにもうすぐ街に着くと教えてもらったから気が緩んでしまったのか、どっちなのか分からないけれど。多分、素直に言えばユーリさんたちは休ませてくれるとは思う。でもわたしの所為で足を止めてしまうのはあまりにも申し訳ない。
 わたしはユーリさんの問いかけに黙って首を縦に振る。ユーリさんは「そうか」とだけ呟いた。

「あ!」
「ど、どうしたんです?」
「ごめん! 用事があったんだ!」

 クオイの森を抜けてようやく辿り着いたハルルという街は本当に大きな樹を中心に構築されていて、帝都とはまた違う穏やかな空気が流れる街だった。
 ハルルの街に着いて早々に「じゃあね!」と言って街の奥の方へと走り去ってしまったカロルくん。自慢の武醒魔導器(ボーディブラスティア)なんだと言っていた肩にかけた大きな鞄が走るたびに揺れていた。きっと急ぎの用事でも思い出したのだろう。勝手に納得したわたしの隣ではユーリさんが呆れたように肩を竦めていた。

「勝手に忙しいやつだな」
「でも、案内してくれて助かりましたね」

 木漏れ日すらあんまり入らないような薄暗い森の中だったからカロルくんの案内は本当に助かった。わたしはありがたいと思っていたけれどしっかり者のユーリさんからするとそうではなかったらしい。呆れたように目を細めるユーリさんに苦笑交じりで答えると、ユーリさんの視線がおもむろにわたしの方に向けられた。それはさきほどのような真面目な表情ではなくて少し力の抜けたような笑みを向けられわたしはひっそり首を傾げる。そんな笑われるようなこと言っただろうか。

「……アズサもエステルといい勝負だよな」
「何がですか?」
「いや、こっちの話。行こうぜ。エステルはフレンを探すんだよな……」
(あれ……?)

 ユーリさんの視線の追いかけるようにわたしも視線を移したけれど、さっきまで立っていたはずの場所にエステルさんはいなくて目を見開く。
 慌てて彼女の姿を探せばエステルさんは道端で怪我をして座り込んでいる人たちのもとに駆け寄っていた。フレンさんは探さなくて大丈夫なのだろうか……。
 わたしはそっとユーリさんの様子を伺うとタイミングよく視線がぶつかる。お互いに考えていたことは同じだったようで二人で苦笑しながらエステルさんを追いかけた。


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