027


 本来向かうはずだったよろず屋を通り過ぎてわたしたちは宿屋へと向かった。理由はただひとつ――わたしのため。
 ちょうど空いていた宿屋の一室に案内されるとエステルさんは問答無用でわたしをベッドに押し付けた。宿屋まで案内してもらえれば大丈夫だと言ったんだけどエステルさんはわたしを寝かせるところまで付き合うと言って聞かなかった。
 結局、身の回りのことをほとんどエステルさんがやってくれてわたしはなされるがままシーツをかけられている。

「えっと、すみません。エステルさん」
「……どうして言ってくれなかったんですかアズサ」

 ベッドの近くにあった椅子を引き寄せたエステルさんはシーツの下に隠れていたわたしの手を探り当てて両手で包み込んだ。ほっそりとした柔らかな指が絡まる。わたしを覗き込むように顔を寄せてきたエステルさんはどこか不満そうで少し戸惑ってしまった。わたしたちはまだ出会って間もない。まだ人となりすら分からないような曖昧な関係で呆れられるなら分かるけれど。

「体調が悪かったなら言ってください。本当はクオイの森の時から具合悪かったんですよね」
「…………はい。実は、あの頃からずっと頭が痛くて」
「やっぱり。倒れちゃったら元も子もないんですよ」
「そうだよアズサ。無理は良くないよ」
「……」

 全くもって返す言葉がない。
 エステルさんの隣に並んだカロルくんも不安げな表情をこちらに向ける。確かに体調が良くないのは自分でも分かっていたけれど、時間が経てば勝手に治るものだとあの時は信じていた。実際は全然良くならなかったけれど。カロルくんの琥珀色の瞳が陰る。
 戦いに参加できないという点でかなり足手まといになっていると自覚していたから、少しでも迷惑をかけないようにしようと思っていた矢先にこれだ。しかも自分より小さな子どもに窘められるなんて、恰好がつかない。わたしは「すみません……」としおしおと謝ることしかできない。

「ユーリ、わたしアズサの体調が戻るまで一緒にいます」
「そ、そこまで大丈夫ですよ! わたしは寝てれば治るものですから」

 わたしは思わずベッドから飛び上がって無理矢理口角を持ち上げた。「でも、」と言い淀むエステルさんの上から言葉を被せる。

「今はハルルの樹のことを優先してください。わたしは大丈夫です」

 エステルさんは迷うように視線を彷徨わせる。ハルルの樹のことが気になっているのもまた本心なのだろう。やがてエステルさんは繋いでいた手を静かに離した。

「本当に大丈夫なんですか?」
「はい、なのでエステルさんたちはよろず屋に向かってください」
「……じゃあ、わたしたちはパナシーアボトルを探しに行ってきます。アズサ、ちゃんと寝てくださいね」
「はい。エステルさんも気を付けてください」
「ゆっくり休んでねアズサ」
「ありがとうカロルくん」

 部屋を出ていくエステルさんとカロルくんをベッドの上から見送る。気持ち的にはこのままベッドに身体を沈めて眠ってしまいたい気分だったけれど、それを許してくれない人物が一人。いつまで経ってもその場から動こうとしないユーリさんにわたしはおそるおそる声をかける。正直言うと、体調が悪いと指摘されてから今まで一言も発していないユーリさんの方が何を言ってくるか分からなくてびくびくしていた。美人の無表情というのは恐ろしい。

「あの、ユーリさんすみません……下町を出て早々にご迷惑をおかけしてしまって」
「ん? ああ、気にしてねえよ。エステルが森の中でエアルに酔ってひっくり返ったことに比べれば可愛いもんだろ。正直あっちの方が驚いたぞオレは」
「それは、そうなのかもしれないですけど……」

 意識を失って倒れるよりはマシだったのだろうか。いや、でもユーリさんたちに余計な気苦労をかけてしまっている時点で同じなのでは……?
 頭を悩ませながらうんうんと悩んでいると頭上からくすりと忍び笑いが聞こえた。下を向いていた視線を持ち上げると突然目の前にユーリさんの大きな手が迫ってきていて身体が固まる。そのまま頭をがしっと掴まれて視界が見えなくなるくらいに髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回された。「うわっ」と声が漏れる。抵抗する間もなく今度はぐーっと頭を押されてわたしはベッドに沈み込んだ。シーツを頭の上まで被されてわたしの視界はとうとう真っ暗になる。からからと笑うユーリさんの声がシーツ越しに聞こえて「こっちのことは気にすんな」と言葉が続く。身じろぎをして頭を出した時にはもうユーリさんはドアノブに手をかけていた。

「まあ、あんまり無茶すんなよ」

 ぱたんと音を立てて閉まった扉。ぱたぱたと駆けてゆく足音にほんの少し寂しさを感じながらエステルさんに握られていた手のひらをぼんやりと見つめる。
 ユーリさんにはわたしが無茶をしているように見えていたのだろうか。そうだとしたらわたしは随分と感情を隠すのが下手らしい。小さく息を吐きだして再び身体をベッドに預けた。
 出来ることならわたしだって無茶はしたくない。本当なら今日も女将さんのお手伝いをして穏便に生活していたはずなのに。下町を飛び出してからというもの慣れないことの連続で、すでに頭がパンクしそうになっている。おそらくその結果がこの頭痛なのだろう。ずきずきと痛むこめかみを押さえる。
 もっと心穏やかに過ごしたい。もっと自分らしくいたい。そんなささやかな願いもきっと今の状況では難しい。この異世界に留まり続ける限り。
 わたしは静かに瞼を閉じる。今は、何も考えずに眠ってしまいたかった。


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