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(さむい……)

 ひんやりと冷たい空気が頬を撫でてたまらず手元のシーツを手繰り寄せた。そういえば眠る前に部屋の窓を閉めるのを忘れていた気がする。わたしはうっすらと瞼を持ち上げて、そして視界に映った景色に目を見張った。部屋が暗い。
 慌てて上体を起こして周囲を確認する。薄暗い部屋に窓から差し込む淡い月明かり。ほんの少しの休息のつもりだったんだけど、随分と眠り込んでしまったらしい。
 けれど、ゆっくり眠れたお陰で頭痛はかなり良くなった。鉛のように重たかった身体も軽くなった気がする。わたしは薄暗い部屋で目を慣らしながら再びぐるりと周囲を見渡した。どうやらユーリさんたちはまだ戻ってきていないようだ。

(まだ、パナシーアボトルが見つかっていないんだろうか)

 シーツをよけてベッドに座ると小さくスプリングが鳴った。静寂が支配する部屋ではよく響く。
 ユーリさんたちはまだハルルの樹を治すために動いているのだろうか。具体的に何をしにいったのかは見当もつかなかったけれど、ハルルの樹が元気になるまではここに戻ってこないような気がした。

(それなら、)

 それならわたしはここでハルルの樹を治したユーリさんたちを大人しく待っているのが一番いい。入れ違いになっても困るというのもあるけれど、今のわたしではきっと何の役にも立てないだろうから。首から垂れ下がったペンダントが月明かりに照らされて控えめに輝く。ちかちかと煌めく赤い色。この世界の貴重品がわたしにとってはただのガラクタにしかならない武醒魔導器(ボーディブラスティア)のように。わたしがいたところで何かの助けになるとは到底思えない。
 ふと窓辺に目をやると開いていた窓の下に月明かりに照らされて何かが落ちているのが見えた。暗くて何なのか分からなかったからわたしはベッドから降りて窓に近づく。しゃがみ込んで床に落ちていたものを拾うと小さくて薄い――まるで花びらのような形をしたものが落ちていた。そかも一枚だけじゃなくて何枚も。

(こんなにたくさんの花びらがどうしてこんなところに……?)

 不思議に思いながらわたしはそれを夜空にかざそうとした。明かりのない部屋では本当に自分が拾ったものの正体が分からなかったから。
 けれど、それをする前にわたしは自分の目に映った景色に息を呑む。

(うわ)

 宿屋の店主に案内された二階の角部屋は窓からちょうどハルルの樹が見えて「満開の時季になると予約でなかなか取れなくなってしまうんだ」と自慢げに話していたのを覚えている。「今年はそれどころじゃないけどな」と寂しげな表情を浮かべていたことも。ハルルの樹が満開になると花びらがたくさん散って街全体が桃色になってしまうらしい。話を聞いていた当時はいまいち想像が出来なかったけれど、目の前の光景を見た今なら店主の言っていたことも納得がいく。
 初めて街を訪れた時は枯れ木だったはずのハルルの樹。それが見違えるほど満開に咲き誇っていた。夜空に桃色の花が煌めいていてこれが本来のハルルの樹の姿なのだとすぐに分かった。上空を見上げれば帝都と同じ街を覆う結界も確認できる。本当に結界魔導器(シルトブラスティア)としての役割も果たしていたのだ。

「……あ、」

 ふと手元に視線を落とすと摘まんでいた花びらの輪郭が浮かび上がっていてわたしは目を丸くする。それはわたしが元の世界で慣れ親しんだ花ととても良く似ていた。そういえばまだ子どもの頃、家族で近くの公園にお花見に出かけたりしたな。初めて見るものなのにどこか懐かしさを覚えながらひらひらと街中をただよう花のひとつをそっと両手でつかまえる。街がどんどん花びらでいっぱいになっていく様子を特等席で眺めていると、坂道を駆け降りる三人と一匹の姿が見えた。

「あっ! おーい、アズサーっ!」

 わたしに気が付いて大きく手を振るのはカロルくん。外は薄暗くてはっきりと顔を見ることはできなかったけれど、小柄な体の傍でトレードマークの大きな鞄が揺れているものだからすぐに誰なのか分かった。カロルくんの声でエステルさんもわたしに気が付いたのか大きく手を振ってくれている。
 街の様子とカロルくんたちの様子を見てわたしは確信した。きっとパナシーアボトルを見つけることが出来たのだろう。ホッと安堵の息を吐いて、わたしも二人に応えるように大きく手を振り返した。


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