032


 耳を澄ますと水の流れる音が聞こえる。さらさらと緩斜面を滑るような音が。
 遺跡というだけあってシャイコス遺跡は時代に取り残されたような重厚な空気を漂わせた場所だった。あちこちが欠けている大きな石像には無数の蔓草が絡みついている。無造作に転がった瓦礫には苔が生い茂っていた。街とはまた違う異世界の空間にわたしは静かに息を呑み込む。

「遺跡なんて入るのはじめてです……」

 最近見つかったという地下の存在。まだ一部の魔導士しか教えられていない場所だからほとんど道の整備もされていないのだという。石像をずらして地下に入ると確かに照明はほとんど設置されておらず足元も薄暗い。うっかり転んで怪我とかしないようにしないと。階段を下りて地下に潜っていくとひんやりとした空気が頬を撫でた。
 隣に並ぶエステルさんはしきりに視線を動かして遺跡を観察しているところを見るに少し興奮しているらしい。外の世界に憧れていたと前に言っていたし、初めて見る場所に感動しているといったところだろうか。「興味津々ですね」と声をかけると「はい!」と満面の笑みと共に元気な返事が返ってきた。なんとも笑顔が眩しい。

「そこ、足元滑るから気を付けて」

 エステルさんと一緒に薄暗い遺跡を進んでいると、背後からモルディオさんの淡々とした声が聞こえる。肩越しに振り返ると仏頂面のモルディオさんがわたしたちを見つめていた。「分かりました」と言おうとして口を開きかけた瞬間、足元がつるっと滑る。咄嗟に手をついてなんとか転倒を防ぐことは出来たけれど、ろくに舗装もされていないでこぼことした道だったから手のひらがじんじんと痛んだ。「大丈夫ですか!」とエステルさんがしゃがみこんでわたしの顔を心配そうに覗き込む。大したことはない。少し手を擦りむいただけだ。眉を下げるエステルさんにわたしは唇の両端を持ち上げて薄い笑みを作った。「格好悪いですね」と手についた小さな砂利を払うわたしの様子を見てエステルさんの表情が緩む。

「はあ、言ったそばから」

 その声の持ち主が誰かなんてすぐに分かった。呆れた表情でこちらを見下ろすモルディオさんにわたしは苦笑いを浮かべる。そのままゆっくりと立ち上がろうとしたその時、暗がりでも分かるほっそりとした白い指先が見えてわたしは一瞬固まった。危険を教えてくれた時も少し意外だなと思っていたのに、まさか手まで差し伸べられるとは。自分よりも一回り小さなモルディオさんの手を掴んで立ち上がる。最初の印象から気難しい子なのかと思っていたけど、想像より優しい子のようだ。

「ありがとうございます」
「いいわよ別に……なに見てんのよ」

 パッと繋いでいた手を離すとモルディオさんはユーリさんを睨みつける。ユーリさんはまだモルディオさんに対する警戒を解いていない。口元こそ笑っているけれど今も彼女を見つめる瞳は怪訝そうだ。

「モルディオさんは意外とおやさしいなあと思ってね」
「はあ……やっぱり面倒を引き連れてきた気がする。別にひとりでも問題なかったのよね……」
「リタはいつも、ひとりで、この遺跡の調査に来るんです?」
「そうよ」

 わたしはモルディオさんのあっけらかんとした返答に密かに目を開いた。カロルくんのころをガキんちょと呼ぶあたり、カロルくんよりは年上のようだけどわたしやエステルさんと比べればきっと年齢は低い。華奢な身体や幼い顔立ちが物語っている。そんなモルディオさんがたったひとりで遺跡の調査をしているという。危なくないのだろうか。

「罠とか魔物とか、危険なんじゃありません?」
「何かを得るためにリスクがあるなんて当たり前じゃない。その結果、何かを傷つけてもあたしはそれを受け入れる」
「傷つくのがリタ自身でも?」
「そうよ」
「悩むことはないんです? ためらうとか……」
「何も傷つけずに望みをかなえようなんて悩み、心が贅沢だからできるのよ」
「心が贅沢……」
「それに、魔導器はあたしを裏切らないから……。面倒がなくて楽なの」

 魔導器は面倒がない。ぽつりと呟いたモルディオさんの横顔は少し寂しく見えてわたしは息を呑み込む。声をかけようにも咄嗟になんて言ったらいいのか分からず、開きかけた唇を閉じる。考えてみたらモルディオさんの家には彼女以外に人が住んでいるような形跡はなかった。もしかしたらこの子も複雑な事情を抱えているのかもしれない。

「――ねえ。あんた、アズサだっけ?」
「はい……?」

 長い睫毛に縁どられた大きな翡翠の瞳が急にこちらを向いてわたしはパチパチと瞳を瞬かせる。一瞬だけ視線がかち合ったかと思えばそのまま流れるようにモルディオさんの視線が胸元に移った。そこにあるのはペンダントだ。真っ赤な魔導器が埋め込まれた。

「アスピオ出てからずっと思ってたんだけど、あんたその武醒魔導器(ボーディブラスティア)使わないの?」

 武醒魔導器。
 身に着けていると身体能力が高まるとエステルさんが教えてくれたけれど、生憎その恩恵を受けた記憶はない。デイドン砦で坂道を駆け上がった時もすぐに息切れを起こしてしまったし、下町を出てすぐに体調も崩してしまった。その原因はやっぱりわたしがこの世界の人間とは違うからなのだろう。この世界では貴重品だったとしてもわたしにとってはただのアクセサリーにすぎなかった。ただ、誰から貰ったものなのか分からないから下町に戻るまで持っていようと思っているだけで。
 けれど、身に着けているのに使わないというのはモルディオさんにとっては不思議で仕方がないのだろう。

「あ、これは、」
「借り物なんだよ」
(ユーリさん……?)

 確かに、間違ってはいないけど。
 モルディオさんはわたしの言葉を遮ったユーリさんに一瞬だけ視線を向けると、武醒魔導器をしげしげと観察しだした。そんなに珍しい物なのだろうか。「見ますか?」と首に下げていた革ひもを掴んで渡そうとしたけれど、その前にモルディオさんは首を横に振った。どうやら特に調べたいというわけではないらしい。
 モルディオさんは再びユーリさんを一瞥する。その視線は淡々としていて本当にこの子はわたしより年下なのだろうかと疑いたくなる。モルディオさんは大人びた声色で一言だけ呟いた。

「ふーん、借り物……ね」


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