034


 ここまで通って来た道が枝分かれのない一本道で助かった。
 微かな明かりだけが照らすシャイコス遺跡をわたしはただひたすらに前方を走る男の背中を追いかける。ブーツの底が地面を蹴る度にシャイコス遺跡に響き渡る反響音。その異変に気が付いたのはなかなか相手との距離が縮まらず、気持ちばかりが急いていた時の頃だった。こんなに長い時間走っていたら苦しくなってもいいはずの呼吸がなぜだか不思議と苦しくならない。

(わたし、こんなに走れたっけ……)

 決して体力に自信のある方ではなかった。短距離だって早くはなかったし長距離に関してはもっと苦手だ。ちょっとでも長い距離を走ればすぐに息を切らしてしまうような軟弱な身体が、今はどうだろう。でこぼことした足場の悪い地面をそれなりに走っているはずなのに息苦しさはほとんど感じていない。そんな時ふと脳裏に過ぎったエステルさんの言葉。
――武醒魔導器(ボーディブラスティア)は装備者の身体能力を高めてくれるんです。

(まさか)

 半ば信じられない気持ちでわたしは胸のペンダントに視線を落とす。走っているせいで激しく揺れているペンダントの真ん中で赤い魔核(コア)が確かに輝いていた。なんというか……本当に不思議な世界だ。
 でも、今の状況下では非常にありがたい。わたしは必死に足を動かした。

「待ってください!」

 男がローブを翻しながら階段を駆け下りる。もうすぐ遺跡の入り口が近い。もし、男が本当に魔核泥棒だったのならここで取り逃がすわけにはいかないのだ。盗まれた水道魔導器(アクエブラスティア)の魔核には下町の生活が、そして――わたしの無実がかかっているのだから。
 どうやら男はわたしのように武醒魔導器を身に着けていなかったらしい。最初の頃に比べで息も荒く走るスピードが格段に落ちていた。階段を降り切ったあたりで伸ばした指先にローブの裾が触れる。一気に掴んで思いっきり引っ張れば、潰れた蛙のような声を上げて男が地面に転がった。少し申し訳ない気持ちもあったけれど、それなら逃げたりしないでほしかった。

「は、離せっ!」

 掴んでいたローブをパッと離すと男はのろのろと立ち上がる。肩で大きく息をする男にこれ以上逃げる体力は残ってなさそうだった。軽く息を整えるだけですんだわたしは静かに男を見据える。ローブの下から唯一見ることのできる口元は青ざめていて微かに震えていた。

「聞きたいことがあるんです。わたしと、会ったことないですか?」
「は、はあ? 何言ってんだお前」
「下町の……帝都の魔核を盗んだ時にわたしと会っていませんか?」

 あの時、両手で荷物を抱えていたわたしをどうしてもあんなに華奢なモルディオさんが突き飛ばせるとは思えない。確かに小柄なところやローブを纏っていた点は同じだけどわたしが記憶しているものと彼女が身にまとっていたものとは異なっていた。そうなると誰かが彼女の名前を騙って魔核を盗んだ可能性が高い。
 ユーリさんたちは無事にあの石像を倒すことができただろうか。仮にこの男が本当に魔核泥棒だったとしてもわたし一人の力では正直摑まえることも難しい。そうなるとユーリさんたちに追いついてきてもらうことが必須条件なのだけど、背後にまだ人の気配は感じられない。威勢よく飛び出してなんとか追いついたまでは良かったもののその後のことは全く考えていなかった。ここからわたし一人でどこまで時間が稼げるだろうか。

「帝都? 帝都の魔核は、」

 ばしゃん! と激しく水面を叩く音がした。それも一度だけではない。同じような音が何回も続く最中、今度は男の悲鳴が聞こえた。何かが起きているのは確かなのに辺りが薄暗くてその正体を見つけることが出来ない。再び男の悲鳴が響く。

「ま、魔物っ!」

 ひゅっと喉の奥が引きつった。途端に身体が強張って動けなくなる。
 男の周りを取り囲むように何かが蠢いている。暗がりの中にほんのりと光る目玉の数はいくつもあって何体いるかなんて数えている余裕はなかった。じわじわと男に近づいていく魔物。男がわたしに向かって手を伸ばす。

「頼む! 助けてくれ!」

 助けなきゃ。
 頭の中では理解しているはずなのに身体が言うことを聞いてくれなかった。脳裏に蘇る魔物の記憶。真っ赤に濡れた牙と殺気だった鋭い目。頭の中が真っ白になって指一本動かすことが出来ない。男が伸ばすその指先をただ茫然と見つめていた。
 ゆらゆらと薄暗がりの中で魔物が動く。男が情けない声を上げながら必死に腕を振り回している。その中で黄金色の瞳がふたつ、わたしを捉えた。ひっ、と声にならない悲鳴が唇から零れる。逃げたいのに足が地面に縫い付けられたかのように動かない。ゆっくりと魔物が近づいてくる。ずるずると何かを引きずるような音が聞こえる。次第にその音は大きくなっていき恐怖心からじわりと視界が滲んでくる。逃げることもできず、叫び声も上げられず、とうとう現実を見るのが嫌でわたしは目を瞑った。
 
(死にたくない……っ!)
「揺らめく焔、猛追! ファイアーボール!」

 鼓膜に直接響く激しい爆発音にびっくりして瞼を持ち上げるとさっきまであんなにいたはずの魔物が全ていなくなっていた。そしてなぜだかローブを焦がしながら地面に転がっている男の姿も。おそるおそる近づいて覗き込むとどうやら気絶しているようだった。さっきの爆風に飲み込まれてしまったんだろうか。ぽかんとしているとわたしを呼ぶエステルさんの声が聞こえて振り返るとそのまま勢いよく抱きしめられた。視界いっぱいに桃色の髪が広がる。

「エステルさん……」
「大丈夫ですかアズサ! どこも怪我はしていませんか!?」

 肩をがしっと掴んで真剣な表情で顔を覗き込んできたエステルさんはわたしの髪や頬に触れて無事かどうかを確認しているらしい。指先から伝わってくるぬくもりにようやくわたしは緊張が解けて薄い笑みを浮かべられた。「大丈夫です、ありがとうございます」と小さく答えるとそこでようやく不安げだったエステルさんの表情も緩まった。

「そうですか。無事で良かったです」
「あ、あんたバカじゃないの! 戦えないのにひとりで突っ走るなんて……っ!」

 反対に怖い顔をしていたのはモルディオさんだった。
 ぜえぜえと息を切らしながら追いついたモルディオさんは眦を吊り上げてわたしを睨みつける。彼女の言うことは全然間違っていない。身を守る術をひとつも持たないわたしの単独行動はそれだけでユーリさんたちに迷惑をかけてしまった。結果的に無事だったから良かったものの、魔物に襲われてしまったら下手したら怪我だけでは済まなかった。わたしは後からやってきたユーリさんたちに頭を下げる。
 
「勝手に動いてすみませんでした。助けてくれてありがとうございます」
「ほんとアズサに怪我がなくて良かったよ!」
「こうして逃げたやつも捕まえられたし結果オーライだ。な、ラピード?」
「ワンッ!」
「リタ、すごくアズサのこと心配してたんですよ」
「ちょっとっ!」

 聞けば魔物を蹴散らしてくれたのはモルディオさんの魔術だったらしい。近くにいたわたしにはほとんど魔術は当てずに的確に魔物を倒してくれたんだとか。
 それがどれだけすごいことなのかわたしはまだきちんと理解しきれてはいないと思うけれど、無傷で済んだのは間違いなくモルディオさんのお陰だ。

「ありがとうございます、モルディオさん」
「……ふん」


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