036


 ハルルの街に着いて早々、モルディオさんは盛大に顔を歪めた。

「げっ、なにこれ。もう満開の季節だっけ?」

 一本の樹から落ちているとは思えないほどの桃色の花びらが空から舞い落ちている。道端には誰かがかき集めたのだろう花びらの山が積みあがっていたけれど、すでに地面のあちこちに花びらが散らばっていた。掃除しても追いつかないのだろう。こうして立ち止まっている間にも髪の毛や服に花びらがくっついていた。

「へへーん、だから言ったじゃん。ボクらでよみがえらせたって」

 誇らしげに胸を張るカロルくんをモルディオさんはキッと睨み返す。魔導士ではないカロルくんたちが結界魔導器(シルトブラスティア)を直したことが信じられないのだろう。実際にハルルの樹を見るまでモルディオさんはカロルくんの主張をずっと疑っていたから。
 悔しかったのかそれとも素直に関心できなかったか、無言でカロルくんの脳天に手刀をお見舞いしたモルディオさんはハルルの樹へと駆け上がっていった。

「お前も見てきたらどうだ?」
「そうですよアズサ。ハルルの樹とっても綺麗でしたよ」

 あの夜、ハルルの樹を直したユーリさんたちと合流してすぐに街を出発しなければならないと知った時、あの光景を近くで見られないのはちょっぴり残念に思っていた。宿屋の窓から見た景色は本当に幻想的で綺麗だったから。けれど、わたしがカロルくんたちの手伝いができなかったのは自分の体調不良が原因だ。流石に我が儘を言うわけにはいかないと口を噤んだけれど今回は表面上ハルルの樹を見に来たのだから何も問題はないだろう。わたしはユーリさんの提案に素直に頷いた。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

***

 花びらが舞い落ちる坂道をわたしはゆっくりと上っていく。ハルルの樹に近づけば近づく程降ってくる花びらの量も増えていって、頂上に着くころには身体にくっついた花びらを払うことすら諦めてしまった。先に辿り着いていたモルディオさんは樹の傍でモニターのようなものを浮かびあがらせてにらめっこをしている。おそらくあれが魔導器(ブラスティア)の具合を調べる装置なのだろう。華奢な指先が器用にキーボードらしきものを叩いている。その横顔は真剣で声をかけないほうが良さそうだとわたしは上げた手を引っ込める。そうして一人、自分の何倍もあるハルルの樹を見上げて息を漏らした。 

(……綺麗)

 月明かりに照らされていたハルルの樹も幻想的で綺麗だと思ったけれど、太陽の下に照らされているのもまた圧巻だ。その圧倒的な花の数に魅了される。大樹から何本も枝分かれしたそれを覆い隠してしまう程の桃色が頭上いっぱいに広がっている。たくさんの花びらが落ちてしまうかもしれないけれど、この木の下で花見でもしたらきっと楽しいだろうな。
 ……もちろん、今はそんなことをしている余裕なんて全くないのだけれど。
 ひらひらと落ちてくるそれを手のひらで掬う。よく見るとハルルの樹に咲く花は元居た世界でわたしの慣れ親しんだものにとても似ていた。日本に古くから伝わる伝統の花。中には不気味な言い伝えもあるけれど、春の訪れを知らせてくれるあの花がわたしは好きだった。香りは違うけれど花の形は桜そっくりで懐かしさに胸がじんわりと温かくなる。

(懐かしい……)

 不意に脳裏に蘇るこの世界に迷い込む前の生活。毎日朝起きて、学校に通って、勉強して。家に帰ってからも勉強して、お風呂に入って、ベッドで眠る。今のような目まぐるしい生活ではなかったけれど、たまに無性にあの日々が恋しくなることは今でもある。
 わたしはハルルの樹を見上げたまま静かに目を閉じる。今ならなんとなく思い出せそうな気がした、わたしがこの世界に迷い込む直前の記憶を。けれど、いくら考えても肝心の記憶は蘇ってこない。授業が終わって学校から帰る途中だったことまでは覚えているのに、そこからは魔物に襲われた記憶しか残っていない。ぽっかりとその部分だけ抜け落ちてしまったかのように引き出すことができないのだ。

(……やっぱり駄目か)

 ひっそりとため息を吐いてわたしは再びモルディオさんの様子を伺う。真剣な顔でモニターを見ているところをみるとまだ作業は終わらないのだろう。わたしは充分堪能させてもらったし先にユーリさんたちのところに戻ることにした。
 坂道を下っていると途中でユーリさんに出会った。「何かありましたか?」と聞くとモルディオさんが面倒を起こしていないか確認しにいくらしい。

「わたしが最後に見たときはまだ作業している途中のようでしたよ。特別何かしているようには見えませんでしたけど」
「あいつ、自分の研究の為にあえてシャイコス遺跡でオレたちと人型魔導器(ブラスティア)を必要以上に戦わせたんだぜ」
「……そう言われるとちょっと自信なくなりますね」

 ハルルの樹に問題が起きれば街の人たちが困ってしまう。そこまでモルディオさんは非道な子ではないだろう――多分、きっと、大丈夫のはず。
 不安げに背後を振り返るわたしにユーリさんはうっすら笑った。「ま、大丈夫だろ」と言って服に着いた花びらを軽く払う。

「それより助かったわ。アスピオの時、口裏合わせてくれてありがとな」
「いいえ、近くでハルルの樹を見たかったのは本当ですから。そういえばフレンさんはいたんですか?」

 ユーリさんは黙って首を横に振る。魔核(コア)泥棒の情報は少しずつ集まってくるのにフレンさんとはすれ違ってばかりだ。エステルさんの落ち込んだ表情が目に浮かぶ。フレンさんに会う為にハルルの街に戻って来たというのにいないとなると彼女はこれからどうするのだろう。ユーリさんに尋ねてみたけれど「それはエステル自身が決めることだ」と言って彼はモルディオさんの様子を見に行ってしまった。立ち止まっていても仕方がないのでとりあえずわたしはエステルさんたちと合流するために街の入り口を目指す。
 いつか下町で出会ったおとぎ話に出てくる王子様のような柔らかい笑みを思い出す。フレンさんは一体、今どこにいるのだろう。


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