003


 あれから怪我が治るまで家で療養しなさいとハンクスさんに言われわたしは素直に従うことにした。実際、数日間は熱が続いてろくにベッドから出ることが出来なかったのだ。それから腕の噛み跡も徐々に薄くなっていき、わたしがハンクスさんの家から出れるようになったのはあの日から一週間ほど経ったあたりのことだった。
 そして――記憶喪失の少女。それが療養期間中にわたしに付けられた肩書きだった。ハンクスさんの質問に何も答えられなかった結果だ。どうして魔物に襲われていたのか、自分がどこからやってきたのか、行きたい場所があるのか。ハンクスさんから尋ねられた質問に何も答えられなかった。迂闊に喋れば怪しまれてしまうような気がして全ての問いかけに黙って首を横に振った。結果的に言えば記憶喪失だと思われるのは都合が良かった。ハンクスさんには申し訳ないけれど、無知で通せば色々な情報を手に入れるのが比較的簡単だと途中で分かったからだ。
 今日は初めてハンクスさんと一緒に家の外に出る日だった。

「あの結界は結界魔導器(シルトブラスティア)と言っての、この帝都、ザーフィアスを守っておるのじゃ」
「…………」
「どうだアズサ。やはり思い出せんか?」
「――そう、ですね」

 思い出すもなにも、聞いたこともない単語ばかりで発狂しそうだ。結界魔導器? ザーフィアス? そんなお伽噺に出てきそうな文化の数々に間抜けな声を上げないようにするのでわたしは精一杯だった。ハンクスさんの家にいた時からテレビや電球が見当たらなくて薄々嫌な予感はしていたけれど。最初こそたちの悪いいたずらかと思ったが、ハンクスさんは至って真面目な顔で説明してくれるし嘘をついているようには感じられなかった。かと言って、今ある現実を受け止めきれないのも事実だ。洋風の建築が溢れる街並みも頭上を覆う結界魔導器の存在も。わたしは曖昧な笑みを浮かべる。
 不意に肩にそっと置かれた肉厚な手。俯いていた顔を上げるとそこには困ったような泣きそうな複雑な表情をしたハンクスさんがいた。わたしのことを想っての表情だと思うと申し訳なさでいっぱいになる。ハンクスさんにそんな顔をさせる資格などわたしにはないというのに。

「焦ることはない。少しずつ思い出せばいいだけの話じゃ」
「……はい」

 思い出すわけなんてない。だってそんな記憶は元から無いのだから。こんなに良くしてくれるハンクスさんに嘘をつき続けるのは申し訳なかったけれど、それ以上に嫌われるのが怖かった。現時点で身寄りのないわたしが頼れるのはハンクスさんだけだ。もし不審者として彼から見放されてしまったら、わたしは今度こそ生き延びることはできないだろう。あの森の中に戻されてしまったらこの前のような怪我だけでは済まされない。どこにでもいる一般の高校でしかないわたしに何が出来るというのだろうか。まともに自分の身も守れず何も知らない土地に一人放り出されてしまったら……考えただけでもぞっとする。
 うっすらと笑みを浮かべて、わたしはそっとハンクスさんから目を逸らす。本当のことなんて、言えるはずがなかった。

(すべてを打ち明ける日なんて、こないのかもしれないけれど)

 知らない土地、というのは可能性があるかもしれない。海外は行ったことがなかったからその可能性も捨てきれなかった。けれど、今日初めてハンクスさんと一緒に外に出てすぐに"違う"と確信した。言葉や食べ物は非常に慣れ親しんだものだ。木造や石造りの建物だって実際に見たことはなくても、まだ知識として認識していたから許容範囲には入る。けれど、街の雰囲気がなにもかも違った。文字や服装、生活様式、しまいには結界魔導器なんて得体のしれない代物。間違いなくわたしの生きていた文化と異なる。

(でも……それにしては、恵まれすぎている)

 最初はまさか海外にでも拉致されたのかと思ったけれど、街で暮らす全ての人たちがあんなに流暢な日本語を話せるとは思えない。とにかく、ここが日本ではないことは確実だ。そして気になるのは日本という言葉に反応していたハンクスさんの口振り。あれは明らかに知らない人の反応だった。けれど、日本という国を知らないのに言葉は何不自由なく使っている――そんな都合のいい話なんてあるのだろうか。

(まさか、)
「アズサ? どうかしたのか?」
「……」
「アズサ、大丈夫か? 具合が悪いのか?」
「……あ、いえ。大丈夫です、すみません」

 辿り着いたひとつの答えにわたしは思考を停止させる。
 おそらく――ここは、わたしが知っている世界ではないのだろう。つまりは異世界。でなければ辻褄が合わないのだ。ハンクスさんの言うシルトブラスティアという結界も、ザーフィアスという帝都も。疑問に思うことすべてを"異世界"という言葉で括ってしまえば納得がいく。説明が出来てしまうのだ。
 どうやら、わたしは異世界に来てしまったのかもしれない。


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