038


 ハルルの街でルブランさんたちの追跡を免れたと思ったら、今度は辿り着いたエフミドの丘でもまた一悶着起きてしまった。壊れた結界魔導器(シルトブラスティア)を巡ってモルディオさんが騎士を騒がせてしまったり、騎士に捕まらないようにと進んだ獣道でハルルの街を襲ったという巨大な魔物と戦闘になってしまったり。やっとの思いでエフミドの丘に着いた時には足が鉛のように重たくなっていた。こんな時、少しでも胸にぶら下がった武醒魔導器(ボーディブラスティア)が活躍してくれれば良かったのだけれど、ペンダントは役目を終えてしまったかのようにシャイコス遺跡以降輝いていない。純粋に己の体力だけで慣れない山登りをしてしまったわたしは魔物との戦闘にも参加していないというのに体力が底を尽きかけていた。

(そろそろきついかも……)

 ふう、と細く息を吐く。舗装されていない山道を登り続けるのはなかなかに酷で、手のひらはじんわりと汗をかいていた。ようやく木々で覆われていた道を抜けると涼しい風が頬を撫でる。今までの疲れを癒してくれるような心地よいそれに目を瞑っていると前を歩いていたエステルさんが瞳を輝かせながらわたしの手を取った。きゅっと握りしめられて、手汗に気付かれてしまうのではないかと一瞬焦ったが彼女は全く気にする様子もなくぐいぐいと力強く引っ張ってくる。

「アズサ! アズサ、見てください!」
「エ、エステルさん……?」
「躓いて崖から落ちんなよ」
(崖……?)

 背後から届いたユーリさんの言葉に疑問符を浮かべていたが、その理由はすぐに分かった。目の前に広がる見渡す限りの青。太陽の光を浴びてきらきらと水面が輝いている。エフミドの丘は陸の端に存在していた。耳を澄ませばさざ波が聞こえてくる。涼しい風の正体は海風だったのだ。青い香りが鼻孔を擽る。

「ユーリ、海ですよ、海」
「わかってるって。……風が気持ちいいな」

 あと数歩、前に進めばわたしの身体は真っ逆さまに海に落っこちてしまうような断崖絶壁。安全を守る柵もないような場所でも何故か恐怖心も生まれず海を見渡すことが出来たのはエステルさんがわたしの手を握ってくれていたからかもしれない。隣に立つエステルさんの横顔をそっと窺う。彼女は笑むように目を細めながら、じいっと海を見つめていた。

「この水は世界の海を回って、すべてを見てきているんですね。この海を通じて、世界中がつながっている……」
(世界中……か)

 エステルさんの言葉に他意がないのは分かっていた。けれど、ついつい考えてしまう。
 彼女の言う世界中の中に自分の生きてきた世界はどうしたって入れてもらえない。こんなにも広大な海の向こうにわたしの生きた場所はない。

「アズサ、どうかしましたか?」

 勝手に考えて、勝手に気落ちして、なんて面倒な性格なのだろう。
 不思議そうにわたしの顔を覗き込んでくるエステルさんにわたしは「なんでもないです」と無理矢理笑って答える。綺麗に切り揃えられた桃色の髪が風に吹かれてさらさらと揺れていた。しばらくの間、わたしを見つめていたエステルさんは「具合が悪いなら遠慮なく言ってくださいね」と眉を潜めながら呟いた。どうやらまた体調を崩したと勘違いしているらしい。

「――ありがとうございます、エステルさん」
「ねえ、前からずっと思ってたんだけどさ、」

 そう言って小首を傾げるカロルくんの視線はわたしに向けられていた。

「アズサってボク以外の前だと言葉が固いよね、どうして?」

 言葉が固い。おそらく敬語のことを意味しているのだろう。
 どうして、と言われてもユーリさんはわたしよりも年上だから当然。エステルさんは年が近いと初めの頃から分かっていたけれど、地位の高いお嬢様だと勝手に思っているからなかなか言葉を崩すのは憚られる。モルディオさんに関しては、なんとなく敬語を外す機会を失ってしまった。言葉遣いに対して特に誰にも指摘されたことがなかったから今まで過ごしてきたけれどカロルくんにとってはずっと不思議なことだったらしい。
 
「どうしてと言われると返答に困るんだけど……とりあえず、ユーリさんは年上ですし」
「とりあえずってなんだよ」
「へ、変な意味ではないですよ」
「わたしはアズサと年は変わらないですよ」
「なんとなく敬語の方がいいかなー、と」
「それならあたしの場合はどうなるわけ? あたしはあんたより年下よ」
「そ、そうですよね……」

 どうしてだろう。エステルさんとモルディオさんの視線が痛い。苦し紛れの言い訳も簡単に跳ねのけられてしまってわたしは乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。今さら言葉遣いなんて気になるだろうか。「アズサの好きなようにさせればいいだろ?」とユーリさんがフォローしてくれたけれど、エステルさんは大きく首を横に振った。

「いいえ! わたし、アズサともっと仲良くなりたいんです。なのでアズサはもっと砕けた口調で話して欲しいです」
「で、でもエステルさんも敬語じゃないですか」
「わたしは元からこういう口調なんです。でもアズサは違いますよね?」
「う……」

 痛いところを突かれてしまった。反論が出来なくなって口ごもるわたしにエステルさんは真剣な顔で詰め寄ってくる。睫毛の長さまで見えてしまうような至近距離まで近づかれてしまい、なんとなく居心地の悪さに耐え切れなくなってしまったわたしは咄嗟に逃げ出したけれど壁に追いやられてしまって逃げ場を失う。
 ここまできて言葉を意識的に崩すというのは個人的に難しい。それが相手に要求されているものなら尚更だ。エステルさんの期待を含ませたきらきらとした視線が痛くてユーリさんに助けを求めたけれど、ユーリさんは諦めろとでも言うように肩を竦めただけだった。

「素直に従った方がいいんじゃない? こうなると梃子でも動かないわよ」
「モルディオさんまで……」
「そうです。リタの言う通りですよアズサ!」

 とてもじゃないけど逃げられる雰囲気ではない。逸らしていた視線を再びエステルさんに向けると熱烈な視線が注がれる。ただ言葉遣いを変えて欲しいとお願いされただけなのにここまで大事になると逆にやりづらい。集まるいくつもの視線にうっすら頬に熱が集まるのを感じながらわたしはひどく小さな声で唇に彼女の名前を乗せた。


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