039


 むわりと湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。エフミドの丘を抜けて目的地のカプワノールに向かうにつれて頭上には鈍色の雲が空を覆い始め、街に着く頃にはぽつりぽつりと雨も降ってきた。傘も持っていないので小さな染みがどんどん服に増えていく。このままだと全身ずぶ濡れになるのも時間の問題になりそうだ。

「……なんか急に天気が変わったな」
「びしょびしょになる前に宿を探そうよ」

 カロルくんの意見に反対する人はいなかった。わたしもこの疲れ切った身体を休めたい。ふかふかのベッドに身を埋めて眠りたい。
 残りの体力をなんとか振り絞って宿屋を探そうとした時、ユーリさんがふと足を止める。その視線はきょろきょろと辺りを見渡すエステルさん――エステルちゃんに注がれていた。

「エステル、どうした?」
「あ、その、港町というのはもっと活気のある場所だと思っていました……」

 わたしも決して港町に詳しい方ではないけれど、確かに雨が降っていて家にこもりがちになってしまうのは仕方ないにしても、随分と人通りが少ないように感じる。港に並んだお店もほとんど閉まっているようだ。たまたま全部のお店が定休日……なんてことあるんだろうか。赤やピンクなどのカラフルな色に彩られた屋根もくすんでいるように見える。
 きゅっと眉間に皺を寄せながら考えていると、わたしの隣に小柄な少女が並ぶ。

「確かに、想像していたのと全然違うな」
「でも、あんたたちの探してる魔核(コア)ドロボウがいそうな感じよ」
「え、だけど、その人はノール港じゃなくてトリム港に向かったんじゃ……」
「どっちも似たようなもんでしょ」

 モルディオさん――もといリタちゃんは腕を組みながら興味なさげに呟いた。ノール港とトリム港はふたつの大陸にまたがったひとつの街だと聞いているからあながち彼女の主張も正しいのかもしれない。
 苦笑いを浮かべると頬にぽつりと大粒の雨が当たった。このままだと本当にずぶ濡れになってしまう。本降りになる前に宿屋を見つけられればいいけど。頭上を覆う雲はどんどん分厚くなり、より一層街の空気を重たくしているような気がした。

「そんなことないよ。ノール港が厄介なだけだよ」
「どういうことです?」
「ノール港はさぁ、帝国の圧力が……」

 そう言ったカロルくんの言葉を遮るように激しい怒号が聞こえてきた。雨が地面を叩く音に混じって苦しげな呻き声も聞こえる。何か良くないことが起こっている。ユーリさんたちの足が声の持ち主に向かっていくのは至極当然のことだった。
 見つけたのは柄の悪そうな二人組の男と、彼らの足元に倒れた男性とそんな彼に駆け寄る女性。ただならぬ雰囲気であることはわたしでも分かった。金、息子、役人。断片的に聞こえる言葉を繋ぎ合わせて連想する状況に思わず眉間に皺を寄せた。倒れた男性を見下ろす二人の笑い方のなんと下品な事か。……嫌な笑い方だ。

「なに、あの野蛮人」
「カロル、今のがノール港の厄介の種か?」
「うん、このカプワ・ノールは帝国の威光がものすごく強いんだ。特に最近来た執政官は帝国でも結構な地位らしくてやりたい放題だって聞いたよ」
「その部下の役人が横暴な真似をしても誰も文句が言えないってことね」
「酷い……」

 下町も帝都の圧力はそれなりに受けていた。決して低くはない納税、権力を振りかざす騎士団。帝都に対しては絶対的な防衛力を発揮する騎士団も下町に対しては横暴な態度しかとってこなかった。それでも下町が少ない保護なりに生活することが出来たのはユーリさんのような抵抗する人間がいたからなのだろう。でも、この街には彼のようながいなかった。その結果がカプワノールなのだ。
 役人が立ち去ると男性がよろよろと立ち上がる。覚束ない足取りでどこかに向かおうとする男性に対して目を見開いた女性が必死に叫ぶ。

「今度こそあなたが死んでしまう!」

 彼女の頬を伝う雫は雨だけではないのだろう。ティグルと呼ばれた男性はキッと女性を睨みつけた。

「だからって、俺が行かないとうちの子はどうなるんだ。ケラス!」

 思いの外大きかった声に身体が竦む。わたしが直接言われているのではないのに。それだけ彼の叫びは悲痛で胸に染みた。あの役人たちは、この街の執政官はこんなことをして何が楽しいのだろう。それはわたしには到底理解できるものではなかったし、正直理解したいとも思わなかった。
 ふらふらと男性がこちらに向かって歩いてくる。濡れた前髪と頭に辛うじて引っかかった包帯が邪魔をしてわたしたちのことはあまり見えていないようだった。こちらのことは見向きもせずユーリさんの横を通り過ぎる。次の瞬間、わたしはもちろんユーリさん以外の全員が息を呑んだ。すれ違いざまにユーリさんが足を引っかけて男性を転ばせた。咄嗟に手が出なかった男性は身体を強かに地面に打ち付ける。

「痛っ……あんた、何すんだ!」
「あ、悪ぃ、ひっかかっちまった」

 悪びれもせず、軽い調子で答えたユーリさんの態度をエステルちゃんが咎める。倒れた男性にエステルちゃんは駆け寄ると即座に治癒術を発動させて傷を癒してしまった。治癒術というのは何回見ても本当に不思議だ。それはある意味リタちゃんの魔術にも言えることだけれど。そこに先ほどの女性も慌ててやってきて男性の身体を優しく擦った。服の袖からちらりと覗く何重もの包帯。エステルちゃんの治癒術で他の箇所の傷も良くなっていればいいけれど。

「あ、あの……私たち、払える治療費が……」
「その前に言うことあんだろ」
「え……?」
「まったく、金と一緒に常識までしぼり取られてんのか」
「ご、ごめんなさい。ありがとうございます」

 いくら小雨とはいっても、時間が経てばそれなりに身体は濡れてくる。確実に湿ってきた髪を軽く払っているとふと路地に向かって歩いていくユーリさんの背中が見えた。何か気になるものでも見つけたのだろうか。静かに横目でエステルちゃんたちを見れば男性を抱き起すののにかかりきりでユーリさんに気が付いている様子はない。声をかけるか迷ったけれど、今は一人で向かってしまったユーリさんの方が気になる。
 わたしはちらっと自分の足元で煙管を加えて佇むラピードを見下ろす。ラピードが動いていないということはそんなにユーリさんを心配する必要はないのだろうと思うけれどこの街の治安の悪さを見ると不安がないかと言われれば嘘になる。わたしよりユーリさんはずっと自分の身を守れる人だけど。
 
「ラピード、わたしユーリさんの様子見てくるね」

 ユーリさんの相棒にそっと耳打ちをしてわたしは彼の背中を追いかけた。


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