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 ユーリさんが曲がっていったのは本当に気をつけないと見逃してしまいそうな細い路地裏。ぱたぱたと本格的に振り出してきた雨に流石にこれは連れ戻さないといけないと思いながら足を動かす。レンガ造りの壁を伝うように曲がって――自分の目を疑った。「ユーリさん……?」と間抜けな声が唇から漏れる。
 きぃん、と金属がぶつかる音がした。外気に晒されたユーリさんの剣にいくつもの刃が蛇のように絡みついていた。何が、目の前で繰り広げられているのだろう。
 ユーリさんは黒装束を纏った三人の男に取り囲まれていた。

「っ、ユーリさん!」

 ハルルの街で見かけた黒装束の男たち。先回りされていたのだろうか。それともあの人たちとはまた別の……いや、今はそんなことを考えている暇はない。
 ユーリさんの命が狙われている。気が付けば身体が勝手に動いていた。
 路地裏に乱雑に置かれていた木箱のひとつを持ち上げ思いっきり投げつける。本当は男の一人にでも当たれば良かったのだけれど、力不足で木箱は路地裏の真ん中で派手な音を立てて転がっていった。驚いたように全員の視線がこちらに向けられる。ひっ、と思わず喉が引きつった。

「アズサ……!」

 目を見開くユーリさんの顔が視界に映ったような気がしたけれど、今のわたしにそれを見る余裕はなかった。
 わたしの存在を捉えた男たちは数秒間互いに目配せをするとその内の一人がゆっくりとこちらに身体を向ける。その両手には細身の剣が握られていて、薄暗い路地裏の中で明かりを灯すかのように輝いたのを目で追った。全身を悪寒が駆け巡る。逃げなきゃと頭の中では理解してるのに足が縫いつけられてしまったかのように動かせない。表情の見えない黒装束が近づくにつれて理性が奪われて頭の中が真っ白になってゆく。いつの間にか両手は縋るように胸のペンダントを強く握りしめていた。

「あ、」

 静かに男が剣を構える。姿勢を低くし、足を一歩引く。ただただわたしは目の前の光る鈍色に釘付けになってしまっていた。頬を伝って零れ落ちるのは雨なのか、涙だったのかそれすらも分からなくなっていた。
 わたしは、ゆっくりと瞼を下ろす。ほとんど現実逃避のようなものだった。

 ――目を開けて。

(え?)

 それは耳からではなく脳に直接届いた気がした。鈴のように凛とした少女とも女性ともつかない声。驚いて目を開けると奇妙な光景が目の魔に広がる。
 身体が見えない力に引っ張られる。いつの間にかわたしが手に持っていたのは近くに転がっていた鉄製の棒だった。勿論、自分の意思ではない。

(なにこれ)

 ガキン、と金属音がぶつかる音がする。手がびりびりとしびれるように痛い。わたしは襲い掛かってきた男の剣を受け止めていた。
 自分の身に何が起きているのだろう。状況を理解する間もなく、男が一度距離を取って再び武器を構える。今すぐ踵を返して全速力で逃げたいわたしの気持ちとは裏腹にわたしの身体は姿勢を正して男と向き合おうとする。もう何がなんなのか分からない。
 内心パニックになっていたわたしの肩に何かが触れる。反射的に振り返ってわたしは自分の背後にいた人物を見て目を見開いた。刹那、エステルちゃんの喜ぶ顔が浮かぶ。

「大丈夫、あとは僕に任せて」

 肩越しに振り返ったフレンさんはそっと唇の両端を持ち上げる。雨でしっとりと濡れた髪の隙間から覗く柔和な笑みは太陽のように眩しかった。

***

 ぱたぱたと本格的に降ってきた雨が屋根を叩く。
 あの後、ユーリさんとフレンさんは見事な連携で黒装束たちを追い払った。息の合った剣技は惚れ惚れする程に美しかったのだけれど、その跡が大変だった。突然フレンさんがユーリさんに剣を振りかざしてきたのだ。二人を止める術なんてもっていないわたしはおろおろと見守ることしかできないでいるとそこにエステルちゃんがやってきて話は一度中断することになる。フレンさんが半ば強引にエステルさんを宿屋へ連れて行ってしまったのだ。話の邪魔をするわけにもいかず、ユーリさんはリタちゃんとカロルくんと合流してから街の偵察に。わたしは二人と一緒に宿屋の前で待機することになった。

「もう、急に二人ともいなくなっちゃったから心配したんだよ。何かあったの?」
「えーっと……何があるかなーと思ったんだけど、気のせいだったみたい。ごめんね、心配かけて」

 むくりと頬を膨らませてこちらを見上げるカロルくんに眉を下げる。一連の出来事をユーリさんは二人に話すつもりはないようでわたしも言葉を濁すことしかできない。だけど、頭の中はさっきの出来事でいっぱいになっていた。特に敵と対峙していたあの一瞬を。

(なんだったんだろ、さっきの……)
 
 自分の手のひらを見つめるとびりびりと痺れた感覚が戻ってくるような気がする。あの不思議な声が聞こえてからわたしの身体は言う事をきかなくなった。結果的に命を救われることにはなったのだけれど、どうにも気持ちが落ち着かない。きゅっと指先を握り込む。

(まるで、誰かに操られていたような)
「――ねえ、アズサ」

 リタちゃんに名前を呼ばれて弾かれたように顔を上げる。彼女は整った眉を寄せて難しい表情でわたしを見つめていた。

「あんたは魔核(コア)ドロボウを追っているのよね? それで魔核を取り戻そうと黒幕を追いかけてる」
「う、うん……」
「それなら魔術のひとつくらい覚えておいた方がいいと思うの。武醒魔導器(ボーディブラスティア)を持ってるのに使わないのは正直勿体ないわ」

 わたしは胸の武醒魔導器を見下ろす。身体能力を高める力があり、ユーリさんのように多彩な剣技を放つことができて、リタちゃんのように魔術を自在に使いこなすことができる。シャイコス遺跡でわたしが魔核泥棒に追いつけたのは間違いなく魔導器(ブラスティア)の力のお陰だ。
 ただ――。

「わたしが、魔術を?」
「そう。魔術は知識と想像力があればある程度使いこなせる。アズサなら素質ありそうだし、すぐに使いこなせると思う」
「そうだね。ボクたちもいつでもアズサを守れるとは限らないし」
「……」
「自分の身を守れる方法がないよりあったほうがいい。アズサが使う使わないに関わらず」

 一瞬、どきっとした。リタちゃんはもしかしてさっきの出来事を見ていたのだろうか。
 今回のことで十分というほど経験した。死を目の前にして抗えないという事実が想像以上に恐ろしいものだと初めて知った。今回はたまたま運が良くて命拾いしただけで次もこうなるとは限らない。それならリタちゃんの言うとおり身を守る術を身につけなければいけないのは分かっている。分かっているんだけれども、

「……少し、考えさせて」

 戦闘とか魔術とかまだどこか現実味を帯びなくて、現実に向き合う勇気をわたしは持てていなかった。


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