045


 結果的にレイヴンさんのお陰で屋敷の中に入り込むことは出来た。その過程は決して順調とは言い難いが。
 執政官の屋敷に入りたかったのはレイヴンさんも同じだったらしい。彼はわたしたちを囮にして門番たちの注意を反らし、屋敷内に侵入する。騙されたと気が付いたときには武器を掲げて男たちが向かってきていて。焦るわたしを余所にリタちゃんが吠える。

「あたしは誰かに利用されるのが大っ嫌いなのよ!」

 彼女の足元に赤い光で描かれた陣が浮かび上がった。華奢な身体から放たれたファイアーボールは彼らを一発で意識を失わせるほど強力なもので。わたしはもちろんエステルちゃんもその威力に瞑目していた。地面に伸びる男たちを避けてわたしたちは屋敷の中に入り込む。出来るだけ目立たずに進入するはずが、とんだ邪魔が入ってしまったものだ。
 正面玄関に手を伸ばすリタちゃんにユーリさんは待ったをかけた。あれだけの騒ぎがあれば流石に屋敷内にいる人間も向かってくるだろう。少しでも人に会うリスクを減らす為に、わたしたちは裏口に周り込むことにした。大きな建物の周りを走って走ってようやく見つけた通用口。そこに立つ紫色の羽織を見つけてリタちゃんの顔が歪む。根っこが真面目なだけに飄々とした雰囲気を持つレイヴンさんとは相性が合わないのかもしれない。地面を蹴りながらぼんやりと考えた。

「よう、また会ったね。無事でなによりだ、んじゃ」
「待てこら!」

 外に設置されたエレベーターのひとつに乗り込んだレイヴンさんはボタンを押して上を目指す。彼の後を追おうともうひとつのそれに乗り込んだが、そこで問題が発生した。がこんっ、という鈍い音と共に動き出したエレベーター。それが上ではなく下へと進んでしまったのである。
 簡単に言えばわたしたちは地下に閉じ込められてしまったのだ。

「あーもう! ここからじゃ操作できないようになってる」

 なんとか外に出ることは出来ないかとリタちゃんが機動部分を弄っていたけれど、そう簡単に事は進まなかったようだ。苛立ち気な彼女の声が地下に響き渡る。光の差し込まない地下で唯一の明かりとも言える電球(この世界では別の名前で呼ばれていたはずだ)が頼りなく不規則に点滅していた。半径一メートルがいいところだろうか。それ以上は薄暗くてわたしには良く見えない。
 むわりとこもった空気が鼻につく。錆びた鉄のような臭いや卵が腐ったような臭い、他にもいろんな臭いが混じっていてこのまま呼吸をしていたら肺が悪いものに汚染されてしまいそうだ。思わず服の袖で鼻と口を覆い隠す。大きな効果は発揮されないが少しでもの気休めだ。ちらりとエステルちゃんやカロルくんの様子を見れば彼らもそれぞれに表情を歪めていた。ユーリさんも整った眉を寄せている。

「なんか、くさいね」
「……血と、あとはなんだ? 何かの腐った臭いだな」

 ああ、これは血の匂いなのか。薄暗い空間に充満する血の臭い。それだけで屋敷の主がどんな非道なことをしてきたのか容易に想像できた。背筋を冷たいものが通るのと同時にむくむくと胸の奥底から込み上げてくるもの。その正体が何なのかを探っていると地面を這うような低い唸り声。暗闇の彼方からぼんやりと浮かび上がる小さな光に各々が武器を構えた。少しでも邪魔にならないようにとわたしも体を後退させる。

「魔物を飼う趣味でもあんのかね」
「かもね、リブガロもいたし」
「……本当に性格捻くれてますね」
「はは、アズサに言われちゃ世話無いな」

 姿勢を低くして近づいてきた魔物は三体。いつ飛び出してきてもおかしくない空気に神経を張り巡らせていると、微かに聞こえた弱々しい声。嗚咽混じりのそれは確かに人の――それも小さな子どもの助けを呼ぶ声だった。身体が反射的に動く。おいアズサっ! と叫んだユーリさんの呼び止めを振り切って魔物の横を通り過ぎた。剥き出しの牙がわたしの足を捕えそうになったが、ユーリさんの武術で魔物の注意が反れる。立てつけの悪い木製の扉を押し倒す勢いで開き、必死に目を凝らしてその姿を探す。視覚がほどんと役に立たない今は己の聴覚と直感だけが頼りだ。
 ひくりひくりと子どもが喉を鳴らす音を聞き分け足を進めていると足元に転がっていた何かに躓き手を付いた。片手を付いたことで転倒は免れたが、何気なく手元に触れたそれにわたしは一瞬呼吸をするのを忘れた。

(ほ、ね)

人骨なんて見たことがなかったけれど、なんとなくそれは自分と同じような気がして。口がひゅっと細い息を吸い込んだ。ほね……ひとの、ほね。頭の中が真っ白になり、一気に湧き出てきた吐き気を反対の手で押さえて必死に抑え込む。いっそのこと吐いた方が楽なのかもしれないと思ったが、今は子どもを見つけることが何よりの最優先だ。ぐいっと口元を拭って立ち上がり、感覚を研ぎ澄ませる。目を凝らし、耳を澄まし、息を殺し。そうしてやっと見つけた部屋の隅で蹲る少年に駆け寄った。震える肩にそっと触れると恐怖からなのだろう、びくりと身体が硬直した。彼はひとりでどれだけの恐怖に怯えていたのだろう。瞳いっぱいに溜めた涙がそれを物語っているような気がした。

「おねえちゃん、だれ……?」
「大丈夫、もう大丈夫だからね」
「アズサ!」

 部屋に響き渡る大きなユーリさんの声と床を走る靴音。無事に魔物を倒すことが出来たのだろう。泣きじゃくる少年の手を引きながら彼らの前に姿を現すとまずリタちゃんに怒られてしまった。予告もなしにいきなり走り出すんじゃないわよ! 眦を吊り上げながら声を荒げる彼女に反論できるはずもなくすみません、と謝る。戦いの邪魔になっしまわないようにと黙って動いたのが悪かったようだ。素直に謝罪の言葉を述べるとそれ以上はお咎めなしのようで彼女は腕を組み溜め息を吐いただけで済んだ。
 少年の名前はポリーというらしい。話を聞いていくと彼の両親はリブガロを捕まえにいこうとしていた夫婦の子どもということが判明した。ぽつりぽつりと言葉を零すポリーくんの瞳には大粒の涙がとめどなく溢れていて止まることを知らない。繋いだ手が力強く握りしめられる。最初に見つけたのがわたしだったからなのかポリーくんはなかなか離れようとしなかった。

「アズサ、ポリーの面倒を見てやってくれ」
「分かりました」

 両親に会わせる、せめて屋敷の外に出るまでは誰かが面倒を見ていなくてはならない。だが、ユーリさんやエステルちゃんたちは魔物に遭遇すれば戦わなければならず、その間に彼を危険な目に合わせるわけにはいかない。このメンバーの中で適任なのは間違いなのは自分だ。ユーリさんの問いかけにわたしは大きく頷いた。


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