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 誰かを庇って行動するというのはこんなにも神経が擦り減るものだと初めて知った。今までわたしはどれだけの負担をユーリさんたちに課していたのだろうか。
 敵が現れれば戦闘態勢に入るユーリさんたちの後ろに回ってポリーくんの背中にそっと手を回す。必死にわたしの服を掴み恐怖に耐える彼を見ているのは辛いものがあった。生と死が隣り合うような空間にたった一人で取り残されて、一体どれだけの不安を胸に抱えていたのだろうか。きゅっと眉間に皺が寄る。大丈夫だからね、そう言ってゆっくりと背中を擦ってやることしかわたしには出来なかった。

「はて、これはどうしたことか。おいしい餌が増えていますね」

 嫌な声だなと思う。人を蔑んだ醜い声。
 地上に向かう道を探していると、大きな鉄格子のある部屋に辿り着いた。まるで動物園に展示されている動物になったような感覚。光の差し込まない地下、はめ込まれた鉄格子、放し飼いにされた魔物、足元に転がっていた人の骨。導き出したひとつの答えはとてもじゃないが現実を帯びていなくて。だけどそれを否定するにはあまりにも要素が少なかった。執政官の歪んだ口元がとても気味の悪いものに感じる。

「あんたがラゴウさん? 随分と胸糞悪い趣味をお持ちじゃねえか」

 長いマントのようなものを引きずりながら檻の向こうの階段から降りてきた執政官――ラゴウはユーリさんの言葉に眉をひくりと動かした。薄気味悪い笑みを引き、彼は朗々と語る。退屈を平民で紛らわすのは自分のような高雅な選ばれた人間にしかできない特権だ。衝撃的だった、こんな考えをする人間が世の中にいるのかと自分の耳を疑いたくなった。ひゅっと喉を鳴らす。同時に胸に込み上げてきたどす黒い感情を衝動的に吐き出したい欲求に駆られた。

「おねえちゃん……?」

 繋いだ手に力がこもっていたのだろう。ポリーくんが不安げな瞳を宿しながらわたしを見上げた。強張っていた顔を無理矢理緩めて笑みを作ったが、随分と違和感のあるものだったに違いない。空いた方の手で浮かない表情をした彼の頭に触れる。

「ごめんね、痛かったね」

 話は街の外に放たれていたリブガロのことに切り替わっていた。連れて帰ろうと思っていたリブガロがユーリさんたちの手によって倒されたことを知ると執政官は最初こそひどく狼狽していたが、すぐに気を取り戻しニヒルな笑みを浮かべる。金さえ摘めばすぐに手に入ります。何もかもをお金で解決しようとする執政官に更に胸の内に黒いものが広がっていった。爆発寸前のわたしの前によぎる桃色の髪。肩越しに見えた唇は微かに震えていた。

「ラゴウ! それでもあなたは帝国に仕える人間ですか!」

 彼女が怒っているところなんて初めて見たかもしれない。怒りに肩を震わせながら執政官を睨みつけるエステルちゃんはまるで別人のように感じて。嫌悪感を露わにする彼女を執政官は最初しげしげと見つめ、そして激しく動揺した様子を見せた。リブガロが彼らの手によって倒された時よりもずっと驚いているようにも見える。もごもごと小さく動いた口は何か言葉を紡いでいたが、彼らの邪魔にならないようにと出来るだけ距離を取っていたわたしの耳には届かなかった。
 この空間が彼の娯楽の為に作られた絶望の空間なら、残された希望は執政官の背後にある階段なのだろう。それ以外に出口はきっと存在しない。だが手を伸ばすにも鉄格子をどうにかして突破しなければならず、眉間に皺を寄せる。足元に転がった骨は今までのどの部屋よりも多く、誰もが希望の光に縋りつき、そしてその願いが叶わなかったことを伝えている。
 エステルちゃんの肩に手を添えて彼女の前に立ったユーリさんが徐に刀を抜いた。彼の剣技が鉄格子に衝撃を与える。激しい音と共に砂埃が舞い上がり、咄嗟にポリーくんを抱きしめて衝撃が収まるのを待った。やがて執政官の焦ったような声、と階段を駆け上がる音。そろそろと瞼を持ち上げて腕に閉じ込めたポリーくんの顔を覗き込む。

「大丈夫? ポリーくん、どこも怪我はしてない?」
「うんだいじょうぶ」
「そう、良かった……」

 確認の為にポリーくんの身体を服の上からぺたぺたと触りどこにも傷は見当たらずほっと安堵の息を零す。相手が子どもだからというのもあったけれど、危険が隣り合わせの場所で相手を庇って行動するというのは想像以上に神経を使う。下手をすれば自分の命すら危ぶまれるようなところで。一体、今までわたしはどれだけの負担をユーリさんたちに押し付けてしまっていたのだろうか。

「アズサ」

 名前を呼ばれて背後を振り返ると紫黒の長い髪を揺らしながら彼が立っていた。髪の毛と同じ色の瞳は暗闇に溶けてしまいそうなのに太陽みたいにきらきらと輝いているように見えて。ほら、行くぞ。その一言でわたしの心は掬い上げられる。短い言葉に押し潰されそうな心がどれだけ支えられているかユーリさんはきっと知らないのだろう。
 ぼんやりと立ち尽くしているとリタちゃんが叱咤を飛ばす。わたしたちの目的はラゴウを捕まえるのではなく、天気を操る魔導器(ブラスティア)を探し出し有事を起こすこと。フレンさんたちが合法で屋敷に入り込めるように引っ掻き回すことだ。ぱっちりとした翡翠の瞳を吊り上げた彼女は急かすようにわたしの名前を呼ぶ。エステルちゃんやカロルくんが駆け寄って体調を気にしてくれる。ひとつひとつの暖かい言葉は確実に自分の胸に潜んだ黒いものを拭い去ってゆく。

(嗚呼、やっぱり)

 彼らがいれば何でも乗り越えられるような気がした。


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