004


 異世界、常識的に考えればありえないような空想は案外すんなりと胸の中に溶け込んだ。"日本"を知らない世界、使われる言語、異なる文化。この世界が日本とは違う所にあるというなら疑問は全て繋がる。
 ――それが納得できるかどうかは、別に置いといての話だけど。

(……でも、どうして)

 何故、わたしはこの世界に来てしまったのだろう。きっかけが、上手く思い出せない。気がついたらあの森の中にいて、それで、魔物に襲われていた。じわじわと傷口が疼きだすような感覚に思わず腕を押さえる。ハンクスさんたちの丁寧な処置のお陰で巻かれた包帯の下にほとんど痕は残っていない。だけど、初めて経験させられた果てしない恐怖心は未だに脳裏から離れてくれなかった。隣にいるハンクスさんに気付かれないように小さく息を吐く。まだ、記憶が薄れることはなさそうだ。
 一通りハンクスさんから説明を終えて休憩することになったわたしは近くにあった噴水に腰かける。噴水の真ん中できらきらと輝いている石も、なんか聞いたこともない名前だったけれどもう忘れてしまった。一度で覚えるには情報量が多すぎた。
 絶え間なく流れる水の音を聞きながらわたしは視線を下に落とす。導き出せない答えをどれだけ考えたって無駄なことなのに……頭の中がパンクしそうだ。

「なんだ、まだ本調子じゃないのか?」
「え、」

 突然知らない声が降ってきた、と思ったら不意に頭上が陰ってわたしは顔を上げる。そしたら目の前に綺麗な顔が飛び込んできたからびっくりして思考が止まった。腰ぐらいまである流れるような紫黒の髪がわたしの鼻先まで迫ってきていて、その隙間から同じ色の瞳がこちらを覗き込んでいる。整った顔立ちは男の人にも女の人のようにも見えたけれど、聞こえた声は明らかに男の人のそれだった。自分の置かれた状況が理解できなくてしばらく固まっているとその綺麗な男の人は不思議そうに小首を傾げる。

「ユーリ! 聞いたぞ、お前はまたフレンに迷惑をかけおって」

 隣から聞こえたハンクスさんの荒げた声にハッと意識を取り戻したわたしは慌ててその場から飛びのいた。あんな至近距離で異性に見つめられたことなんてなかったから、変に心臓がうるさい。どうやらわたしを覗き込んでいたこの綺麗な人がユーリという人物らしかった。何故、彼がそれほどまでに怒られているのかは分からなかったが、どうやらフレンという人が関わっているようだ。
 ユーリという人物はわざとらしく溜め息を吐くとわたしから離れてハンクスさんの方へと向かっていった。とりあえずは視線が逸れてわたしは内心安堵の息を吐く。

(ん……ユーリ?)

 初めて聞いたはずなのに、記憶のどこかで引っかかる名前。ユーリ、わたしはその名前を一体どこで聞いたんだっけ。ユーリ、ユーリ……。友達の名前とかではなかったはずなんだけど。
 男の人にしては長い真っ直ぐな髪を眺めながら思考を巡らせていると、ふとハンクスさんと視線がぶつかった。わたしがユーリさんをじいっと見つめていたことに気が付いたのだろう。「そういえばアズサは初対面だったな」とユーリさんの肩を乱暴に掴んで無理矢理わたしと向かい合わせる。いてて、と顔をしかめるユーリさん。どうやら力関係的にはハンクスさんの方が上のようだ。

「こやつはユーリ。倒れたお前さんをわしの家まで運んでくれたんじゃよ」
「ユーリ・ローウェルだ」
「……」

 ユーリ・ローウェル。
 どこかで聞き覚えのあったユーリという名前。彼の名前を反芻して辿り着いた答えはとてつもなく恐ろしいものだった。こんな考えに至ったわたしも存外馬鹿だと思うし、出来ることならわたしだって信じたくない。だけどその可能性を否定するにはユーリ・ローウェルという存在を認知しすぎていた。自分でも分かる程、全身の血の気が引いていく感覚。顔色が悪くなったのをバレたくなくてわたしは咄嗟に下を向いた。

「アズサ? どうかしたか?」
「……すみませんハンクスさん、具合が悪くなったので先に帰ります」

 ぐるぐると思考が駆け巡り、吐き気すら覚えてくる。「大丈夫か?」と心配するユーリさんの声に……身体が強張った。顔を上げることはせずにそのまま勢いよく立ち上がる。
 とにかく、こんな動揺した中でまともに話せるとは思えなかった。俯いたままわたしは口を開く。

「……助けて下さってありがとうございました」

 背後でわたしを呼ぶようなユーリさんの声が聞こえたけれど気づかなかったふりをしてハンクスさんの家まで早足で戻った。後ろ手で玄関のドアを勢いよく締めて、そのままずるずると座り込む。
 今は、とてもじゃないが平常心でいられない。しんと静まり返ったハンクスさんの家で堪らず声が零れ落ちた。

「勘弁、してよ」

 どうして他の誰でもなく、わたしだったのだろう。


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