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 ほんのりと海の香りが鼻孔を擽った。

「目開けていいぞアズサ」
「は、はい……」

 耳元で囁くユーリさんの声がくすぐったい。おそるおそる瞼を持ち上げると艶やかな紫黒の髪とはだけた胸元が視界に飛び込みぎょっと目を見張る。身体が反応したのが私の背中と膝の裏に差し込まれた彼の手に伝わったのだろう。くすりと小さな微笑が頭上から零れ落ちる。あの整った顔がすぐ近くにあると思うととてもじゃないが首を上に向けることは出来なかった。つと視線を反らして軽く服の上から胸板を押す。布越しに伝わるしっかりとした筋肉の感触に新たな羞恥心が込み上げた。何やってるんだろう私。

「も、もう大丈夫です、ありがとうございましたっ……!」

 地上に出ると執政官はすでに港の船で逃げ出そうとしていた。ポリーくんとパティちゃんに別れを告げて船に走ったが、船体はすでに海に出ていて。波止場を全力で駆けるユーリさんたちの後姿に嫌な予感が走る。そのまさかが的中して船に飛び移る羽目になった。だけどわたしにはそんな身体能力なんてなくて、どうしようと考えあぐねていたら突然身体が浮かび上がったのだ。思わず息をひゅっと呑みこむ。

「怖かったら目瞑ってろ」

 怖い、怖いに決まってる。地面から足を浮かせて身体ごと相手に身を任せるのだから。だからわたしを抱きかかえるユーリさんの言う通りに固く目を閉じた。そして一瞬の胃が引っくり返るような浮遊感とほんのりと鼻孔を擽る海の香り。生きた心地がいなかった。出来ることならもう二度と経験したくない体験だ。
 甲板に足を乗せるとほんの一瞬地面と離れていただけなのにひどく懐かしく感じた。内心細い息を吐き出す。ありがとうございましたユーリさん。顔を上げるのは恥ずかしくて失礼だと思いながらも俯いたままお礼を言うと、頭上から気にすんな、と柔らかい声が降ってくる。本当に、どこまでも優しい人だ。

「これ、魔導器(ブラスティア)の魔核(コア)じゃない!」

 しゃがみこむリタちゃんの足元には木箱に入ったたくさんの魔核。様々な魔導器の魔核が入っているようで同じ形をしていても宿す色はそれぞれに違う。海のような蒼い色を持つものもあれば新緑の葉のように萌える緑色。対になる魔導器を探すかのように淡く光るそれらに彼女の瞳は悲しげに伏せられた。隣に並んで彼女を覗き込むと歪んだ横顔が映る。

「リタちゃん、下町の魔核はある?」
「残念だけど、それほど大型の魔核はないわ」
「……そう」

 執政官の屋敷で見つけた天候を操る魔導器に下町の魔核は使われていなかった。微かな望みをかけて船に乗り込んだのは良かったけれど、どうにも予想が外れたようだ。気落ちするわたしに誰かの手が肩に触れる。顔を上げるとエステルちゃんが眉尻を下げながらわたしを見つめていて。口角を意識的に持ち上げて笑みを引く。そうだ、今やるべきことは逃げ出した執政官を捕まえることだ。彼から話を聞き出せれば下町の魔核についても得るものがあるかもしれない。
 やがて甲板に傭兵が現れその場の空気は一気に切り替わる。船の上という狭い環境の中で一瞬の隙は生命の危機にも繋がりかねない。少しでも彼らの視覚に入って狙われないようにと建物の影に隠れていると、やがてわたしの何倍も大きな体格の男が現れた。その片方の目は黒い眼帯で覆われており、シャイコス遺跡で会った男の言葉が脳裏によみがえる。

(隻眼の大男……!)
「バルボス、さっさとこいつらを始末しなさい!」
「金の分は働いた。それに、すぐ騎士が来る。追いつかれては面倒だ」

 そうして足早に緊急用の小舟に乗り込んだ執政官とバルボス。彼らに繋がりがあることにも驚いたが、このままでは逃げられてしまう。追いかけようとするユーリさんたちの前に立ちはだかったのはザギという男だった。血のような真紅の髪から覗く狂気にも似た殺意を宿した瞳に身体が委縮する。咄嗟に建物の影に身を隠して煩い心臓を押さえつけていると、突然船の揺れと一緒に大きな爆発が起きてまた心臓が跳ねる。横に顔を向けると船の先頭部分から炎が巻き上がっていて。爆弾が仕掛けられていたということはこの船自体が執政官による囮だったようだ。相変わらずお金持ちの考えることは分からない。囮に船一隻沈めてしまうことぐらい痛くも痒くもないのだろう。
 金属がぶつかり合う音を聞きながら煙を吸い込まないように服の袖で口を押える。少しずつ船体が傾いていって次第に焦りが生まれてきた。この世界にライフジャケットなどといった都合の良いものは存在していないのだろう。このまま船が沈んでしまえば海に投げ出されるのは確実だ。そっとユーリさんたちを覗き込むと彼らはまだ男と戦っている。傾斜には気が付いているのだろうけれど、相手が強くなかなか手が回らないようだ。

「げほっ……誰かいるんですか?」
(え、)

 燃え上がる炎の音と混じって微かにしか聞こえなかったけれど、確かに耳に届いた聞き覚えのない声に辺りを見渡す。だけど人影を見つけることが出来ない。きょろりと視線を巡らせてまさか、と喉引きつらせる。人目につかないようにこっそりと扉の前に立つ。ドアノブに手を伸ばし思いっきり引いたが、鍵がかかっていて開かなかった。可能性があるとしたらこの中にいるとしか考えられないのに。ガチャガチャと鍵が引っかかる音だけが空しく響く。

(開かないっ……!)
「アズサ!」

 びくりと肩を震わせて背後を振り返るとユーリさんが剥き出しの剣を掴んだままこちらに駆け寄ってきていた。ひゅっと息を吸うと一緒に煙も吸い込んでしまったようで軽く咳き込む。煙で目は染みるし、息苦しい。だけど気が付いてしまった以上、無視することも出来ない。火の手はどんどん広がっていてわたしたちのところまでやってくるのも時間の問題だろう。その前に船自体が沈んでしまう可能性だってある。時間はほとんど残されていない。

「ユーリさん、この中に人がいるみたいなんです」
「分かった。お前は早く海に逃げろ」
「えっ、でも」

 不意にわたしの手の上にユーリさんの細長い指が乗っかる。ドアノブに触れていた指が優しく解かれ、いつの間にか身体も扉から離れていた。オレもそいつ連れてすぐ行くから。扉の鍵を弄りながら言うユーリさんに後ろ髪を引かれながらもわたしはその場を離れ、先に海に逃げたエステルちゃんたちを探す。水面に浮かぶ三人を見つけてわたしはもう一度だけ後ろを振り向いた。ユーリさんがそこにいることを願いながら。

「アズサ、飛び込め!」
「……はいっ!」

 海に飛び込むのは怖いけど大丈夫、きっと。胸で赤く光る武醒魔導器(ボーディブラスティア)を握りしめ、わたしは人を抱えたユーリさんと一緒に海に飛び込んだ。


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