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「目開けていいぞアズサ」
「は、はい」

 耳元で聞こえるユーリさんの声がくすぐったい。おそるおそる瞼を持ち上げると艶やかな髪とはだけた胸元が視界に飛び込んできて思わず目を見張った。身体が強張ってしまったのがわたしの背中と膝の裏に差し込まれたユーリさんの手に伝わったのだろう。小さく笑うユーリさんの声が頭上から降ってきたのが分かってわたしは堪らず視線を下に落とす。あの芸能人並に整った顔が上を向いたらすぐ近くにあって平常心を保てるわけがない。申し訳ないと思いながらもわたしは軽く服の上からユーリさんの逞しい胸板をそっと押した。

「……もう大丈夫です。ありがとうございます」

 屋敷から逃げ出したラゴウを追って外に出ると用意していた船に乗り込むところだった。急いでポリーくんとパティちゃんに別れを告げて港に向かって走ったけれど船は動き出していた。波止場を全力で走るユーリさんたちを必死に追いかけながらその足が一向に遅くならないのを見て、彼らが次に起こそうとしている行動に気が付いてしまいさあっと血の気が引く。いくら武醒魔導器(ボーディーブラスティア)で身体能力が強化されているとは言え、流石にそれは無茶なんじゃないか。案の定、次々と地面を蹴って船に飛び移るエステルちゃんたちを呆然と見つめていると突然身体がふわっと浮いた。
 ――いや、厳密に言えば抱えられた。俗にいうお姫様だっこというやつで。

「ユっ、ユーリさん……!?」
「喋ると舌噛むぞ」
「でも……!」
「怖かったら目瞑ってろ」

 怖いに決まっているじゃないか。下手したら溺れてしまうかもしれない状況で身体ごと相手に身を任せろと言うのだから。けれど、今ラゴウに追いつく為にはその手段を選ぶしか方法がないと頭の中では分かっていたから――わたしはユーリさんの言う通りに固く目を閉じる。せめてもの気休めにユーリさんの服の裾を握りしめた。
 それから胃がひっくり返るような浮遊感がやってきたのはすぐだった。やがて軽やかな着地音が聞こえてうっすらと瞼を持ち上げる。ほんのりと鼻腔を擽る海の香り。下に視線を落とせば木目の甲板が見えてホッと安堵の息を吐いた。できることなら二度と経験したくない。
 色んな意味でうるさい心臓を押さえながら甲板に足を乗せる。ほんの一瞬、地面と離れていただけなのに足の裏にかかる重さがひどく懐かしく感じた。

「これ、魔導器(ブラスティア)の魔核(コア)じゃない!」

 大声を上げるリタちゃんの視線の先には木箱に無造作に入れられた魔核があった。それもひとつやふたつの話じゃない。それぞれの魔核が異なる色を宿しているのを見るに、本当に色々な魔導器から盗んできたものなのだろう。こんなものが積まれた船にラゴウが乗り込んだということは、やはりラゴウが魔核泥棒の件に関わっている可能性が非常に高い。

「リタちゃん、下町の魔核はありそう?」
「残念だけど、それほど大型の魔核はないわ」
「そっか……」

 ラゴウの屋敷で見つけた天候を操る魔導器に下町の魔核は使われていなかった。上手くいけばここで魔核が見つかるんじゃないかと期待したけれど、残念な結果に終わりそうだ。しょんぼりと肩を落としたのもつかの間、騒ぎを聞きつけた傭兵が現れてその場の空気は切り替わる。船の上という狭い環境下で一瞬の隙は生命の危機にも繋がりかねない。少しでも敵の視界に入らないように船の影に身を潜めていると、船の中からわたしの何倍も大きな体躯の男が現れて息を呑み込む。その片方の目は黒い眼帯で覆われており、シャイコス遺跡で会った男の言葉が脳裏に蘇る。

(顔に傷のある男……!)
「バルボス、さっさとこいつらを始末しなさい!」
「金の分は働いた。それに、すぐ騎士が来る。追いつかれては面倒だ」

 そう言ったバルボスとラゴウは足早に緊急用の小舟に移動する。止めようとするユーリさんたちの前に立ちはだかったのはザギという男だった。血で染まったかのような真紅の髪から覗く狂気にも似た殺意を宿した瞳に身体に緊張が走る。ほとんど本能に近い感覚だった。あの手のタイプは素人のわたしが手を出してはいけない、と。
 反射的に身を縮めてユーリさんたちの戦いを見守っていると、突然爆発音と共に船が大きく揺れた。すぐそばにあったデッキの手すりにしがみつきながら音の発生場所を探すと船の先頭部分から炎が巻き上がっていた。なるほど、この船一隻ごと囮にして自分たちは逃げるつもりか。全くもってお金持ちの考えることは分からない。
 燃え盛る船上でユーリさんたちの戦いは続く。少しずつ船体が傾いていくのを感じて流石に焦りが生まれてきた。何か脱出できる手立てはないかと自分なりに探してみたけれどそれらしいものも見当たらない。このまま船が沈んでしまえば海に投げ出されるのは確実だ。

「げほっ……誰かいるんですか?」

 パチパチと爆ぜる炎の音と混じって微かにしか聞こえなかったけれど、確かに耳に届いた誰かの声に慌てて辺りを見渡す。でも人影を見つけることは出来ない。思考を巡らせてまさかと喉を引きつらせる。目に留まった扉の前にこっそりと向かってドアノブを思いっきり引っ張ったけれど鍵がかかっていて開かない。自分のいた場所から考えたらこの中にいるとしか考えられないのに。ガチャガチャと鍵が引っかかる音だけが虚しく響く。すると扉の向こうから微かに物音が聞こえた。やっぱりこの中に誰かいる。

(開かないっ……!)
「アズサ!」

 びくりと肩を震わせて背後を振り返るとユーリさんが剣を握りしめたままこちらに駆け寄ってきた。ひゅっと息を吸うと一緒に煙も吸い込んでしまったようで軽く咳き込む。煙で目は染みるし、息苦しい。だけど気づいてしまった以上、無視することもできない。火の手はどんどん広がっていて船全体を燃やしてしまうのも時間の問題だろう。その前に船自体が沈んでしまう可能性だってある。時間はほとんど残っていない。

「ユーリさん! この中に人がいるみたいなんです」
「分かった。お前は早く海に逃げろ」
「で、でもっ」

 不意にドアノブに触れるわたしの手の上にユーリさんの手が覆いかぶさる。いつの間にか指は優しく解かれ、身体も扉から離れていた。

「オレもそいつ連れてすく逃げる!」

 ほとんど壊す勢いで扉に向けて術技を放つユーリさんに後ろ髪を引かれながらもわたしはその場を離れて、先に海に飛び込んだというエステルちゃんたちを探す。水面に浮かぶ三人を見つけてわたしはもう一度だけ後ろを向いた。こちらに向かって走ってくるユーリさんの小脇には腕と足を縄で縛られた男の人が抱えられていた。
 やっぱりあそこには人がいたんだ。

「アズサ、飛び込め!」

 船の半分は海に沈んでしまっている。このまま踏みとどまっていても船と一緒に沈んでしまうだけ。
 ごくり、とわたしは息を呑み込む。海に飛び込むのは怖いけど、きっとなんとかなる――そんな気がした。不思議と胸で赤く光る武醒魔導器(ボーディブラスティア)を握りしめ、わたしは駆け出すユーリさんと共に海に飛び込んだ。


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