049


 ゆっくりと意識が浮上する。身体を優しく包み込まれているような心地よいぬくもりに僅かに身を捩らせて、ふと疑問を抱く。確かわたしはユーリさんと一緒に海に飛び込んで、それから。

「――アズサ」

 誰かがわたしの名前を呼ぶ。まるで子どもをあやす時のような優しげな声で。前髪を巻き込みながら額に触れる指がくすぐったい。そういえば、初めてこの世界に来て眠っていた間も誰かにこんな撫でられ方をされたような気がする。髪の毛ごと巻き込んでしまう不器用な撫で方。あの手は誰のものだったのだろう。そんなことを考えながら瞼を持ち上げる。ぼんやりと霞む視界に映った深い海の瞳。目が合うとフレンさんは眉を下げて強ばっていた表情を緩めた。

「良かった。目が覚めたんだね」
「フレン、さん……?」

 額に触れていた指が最後に前髪をすいて離れる。改めて視界を見渡すとわたしはベッドに横になっているらしくて。ベッドサイドの椅子に座るフレンさんにここは何処ですか、と尋ねるとカプワトリムの宿屋だよ、と目尻を下げながら教えてくれた。カプワトリム、それは魔核泥棒を仕切る黒幕がいると言われていた街だ。木目調の天井を見つめながらぼんやりとフレンさんの言葉を反芻する。いつの間に街に着いたのだろう。海に飛び込んだ後の記憶がさっぱりない。

「覚えているかい? 騎士団の船に乗った後、意識を失ってしまったんだよ」

 海に飛び込んだ記憶は覚えている。服が全身に張り付いて一気に身体が重くなり、そのまま海の底に沈んでいってしまうのかと恐怖感を抱いた。必死の思いで水面に這い上がったら、ちょうど大きな船が通りかかってそれがフレンさんの乗っていた船だった。わたしが気を失ったとしたらその後なのだろう。小舟に引っ張りあげられた記憶は辛うじて残っていたがそれからは酷く曖昧になっている。
 身体を起こそうと腕を後ろに持っていくと自然な動作でフレンさんの手が背中に回った。支えられるほど長い間眠っていたのだろうかと思ったが、身体に痛みは感じないし身体に倦怠感も感じない。純粋にフレンさんの好意と受け取ってありがとうございます、とお礼を言う。案外近かった彼の整った顔に心臓が跳ねた。考えてみたら支えられているのだから当たり前なのだけれど。

「フレン、彼女の具合はどうですか?」

 穏やかな温かみのある声は男性とも女性とも感じられた。上体を起こすと正面のテーブルに座った男性と目が合ってにこりと微笑まれる。フレンさんとおんなじ黄金色の髪の毛は初めて会ったはずなのに何処かで見たことがあるような気がして内心首を捻った。
 男性の問いかけにフレンさんは緩やかな笑みを浮かべる。ええ、大丈夫なようです。そう答える彼の表情は酷く穏やかなものでますます首を捻ることになった。丁寧な言葉遣いから考えるにフレンさんの上司に当たる人なのだろうか。この世界は年齢と階級は比例していないようだから。交互に二人を見比べていると、フレンさんはそっと口元を綻ばせた。

「アズサ、こちらはヨーデル様。ほら、船で君が見つけてくれた」
「船……?」

 様、と言っていたからやっぱりフレンさんより偉い人なんだろうなあと思いながらヨーデル様をまじまじと観察する。執政官の船にこんな人乗っていただろうか。焦げ臭い煙の臭いと涙で滲む視界、狂気に満ちた瞳。目の前の彼とは似ても似つかないし、あの男の名前はザギだったはずだ。
 他に思い当たる人と言えば、ラゴウ執政官と魔核泥棒の黒幕バルボス、それから。

「――あ」
「貴方のお陰で命を救われました。ありがとうございます」
「いえ、わたしは何も……。助けたのはユーリさんですから」

 わたしは声に気がついただけ。施錠された鍵を壊すこともできなかった。ユーリさんが駆け寄って来てくれなかったらわたしはみすみす人を見殺しにしていたかもしれない。助けたいという思いはあるのに非力な自分が嫌になる。苦笑いを滲ませながら俯けば真っ白なシーツの上に置かれた自分の手が映った。何度も何度も考えた。この両手で、何も知らない無垢な手で、ユーリさんたちの力になれるのだろうかと。

「ですが貴方が気付いてくれなければ今頃船と一緒に海に沈んでいました。本当にありがとうございます」
「……いえ」

 失礼だとは分かっていながらも顔を上げることは出来なかった。眉間に力を込めてシーツを握りしめる。本当に感謝されるべきなのはユーリさんなのだ。船から飛び降りる直前、腰まである長い髪を靡かせながらこちらに走ってきた彼の姿が蘇る。胸に光る武醒魔導器(ボーディブラスティア)を使いこなせれば、少しはわたしも手助けに協力できたのだろうか。カプワノールの一件以来、それは役割を果たしたかのように輝くことを止めている。

(あれ、そういえば)

 ふと顔を上げてきょろりと辺りを見渡す。ベッドに暖炉、テーブルや椅子。なんてことはない普通の宿屋の一室。どうしてこんなに自分の声がはっきりと耳に届くのだろう。その理由はいたって簡単なもので。部屋中を見渡すわたしにフレンさんが不思議そうに名前を呼ぶ。ベッドサイドに座るフレンさんを見ると、彼は瞳を丸くして首を傾げていた。

「あの、フレンさん。ユーリさんたちは……?」
「隊長!」

 荒げた声と共にけたたましく響く扉の音。思わず身体を委縮させてこの部屋にある唯一の扉に視線を向けるとカプワトリムで出会ったソディアさんとウィチルさんがいた。大きく肩を上下させた二人はヨーデルさんに一礼すると真っ直ぐにフレンさんのもとに駆け寄ってくる。それはつまりわたしの近くにも寄ってくるということで。フレンさんの前に立ち止まったソディアさんと一瞬だけ目が合う。色味の感じない瞳は怒っているようにも感じ取れて緊張が走った。

「キュモール隊とシュバーン隊がカルボクラムに向かったとの情報が入りました」
(カルボ、クラム?)
「目的はおそらくユーリ・ローウェルの逮捕と思われます」


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