053


 次の日の朝、目を覚ますと隣にエステルちゃんの姿はなかった。
 微睡む瞼を擦って上体を起こす。綺麗に整えられたベッドに手を伸ばすとまだほんのりと彼女のぬくもりを残していた。てっきりバスルームにいるのかと思って耳をすましてみたが、静寂に包まれたこの部屋に人がいるような気配は感じられない。実際にバスルームを覗き込んでみたけれど案の定、そこには誰もいなかった。
 しんと静まり返った部屋。再びベッドに身体を染み込ませるとぎしりとスプリングの音が鳴った。ゆっくりと息を吐き出す。てっきりわたしが寝坊したのかとも思ったけれど、ベッドサイドに置かれた時計の針はそれほど遅い時間を指していない。そうなると彼女はどこかに向かったのだろう。可能性があるとしたらヨーデルさんがフレンさんか、あるいは……。

(また、おいてけぼりかな……)

 せめて一言ぐらいかけてくれたっていいのに。
 ひとりぼっちの部屋で誰に見せるわけでもなく頬を膨らませていると、枕元に一枚の紙を見つけた。眠る前に紙を持った記憶はない。そもそもこちらの世界に来てからまともに書き物には触れていない。下手に慣れ親しんだ文字を書いてしまって素性がばれるのを防ぐためだ。少しでもリスクを避けたいという思いから制服のポケットに入っていた携帯電話もハンクスさんに借りていた部屋に置いてきている。今はこの身体だけが元の世界の名残を残した唯一のもの。
 拾い上げた紙には不可解な文字の羅列が書いてあった。多分、彼女が書き置きをしてくれたんだろう。この世界の文字だということは分かったけれど語りかけてくる言葉を読み取ることは出来なかった。そういえばエステルちゃんにはわたしが文字の読み書きができないことを言っていなかったかもしれない。少しくらい文字も読めるようにならないといけないなあ、と綺麗に書かれたエステルちゃんの文字を寝転びながらぼんやりと眺めているとぐらっと視界が揺れた。

「え?」

 次第にベッドが小刻みに揺れ出し身体が強張る。この感覚は久々だ。慌てて布団を被り揺れが収まるのを待つ。幸いにもそれほど大きいものではなく揺れもすぐに落ち着いた。ゆっくりと頭に被っていた布団を剥いで辺りを見渡す。テーブルに飾られた花瓶も倒れることはなかったようだ。ほうっと息を吐いて今度こそベッドから降りる。
 エステルちゃんは、大丈夫だろうか。彼女はいつも自分を顧みない部分があるから、誰かが危険な目にあっているとなりふり構わず飛び出してしまう。ユーリさんやフレンさんがいれば大丈夫だろうが、そうでなければ一人で走り出してしまっているかもしれない。胸に不安がよぎる。

(何もなければそれでいいんだから)

 手早く身支度を整えて履いたブーツの紐をしっかりと結ぶ。なんだろう、この言いようのない焦燥感は。

***

 騎士の目を盗んでこっそりと本部から抜け出す。部屋にいた時には分からなかったがどうやら外で騒ぎがあったらしい。本部を駆け回る騎士から聞こえてきた"結界魔導器(シルトブラスティア)"という言葉にひとつの予感。魔導器(ブラスティア)と聞いて彼女が黙っているはずがない。この状況を理解していればエステルちゃんもきっとそこに向かう。
 この街の結界魔導器は街の中心部にあるとフレンさんから聞いた。大きな通りを走っていればいずれ辿り着くことができるだろうと半分己の直感を頼りに進んでいく。わたしの予感は的中したようでしばらく道なりに走っていれば開けた場所が見えてきた。それから赤く燃える結界魔導器と向かい合う茶髪の少女と身体を淡く光らせる桃色の髪の少女。咄嗟に二人の名前を呼ぶ。足は自然と彼女たちに向かっていた。

「リタちゃん! エステルちゃん!」

 駆け寄ろうとするわたしの腕をいきなり誰かが掴む。強い力で後ろに引っ張られて思わず足が止まった。離してください、と大きな声で叫びそうになるのを寸でのところで飲み込む。代わりに出てきた言葉は現実とは裏腹に酷く弱々しいものだった。視界にちらつく艶やかな紫黒の髪に泣きそうになる。

「……ユーリさん」
「これ以上勝手に動かれると、こっちも対処しきれないんでね……」

 ユーリさんは苦しげな声でそう言うとそのまま膝から崩れ落ちた。ユーリさんっ。慌てて彼に駆け寄って顔を覗き込むと額には汗をかいていて顔色はいつもより青白い。わたしの腕を掴んだ手のひらも汗で濡れていた。まさかどこか怪我でもしているのだろうか。嫌な予感が走る。

「大丈夫ですかユーリさんっ」
「おまえ、こんだけのエアルが満ちていても平気なのか……?」
(エアル?)

 エアルってこの世界を構成しているというあのエアルのことだろうか。目には見えない粒子で魔導器を機能させるのに必要不可欠なものだとも聞いている。それが満ちていることでなんの問題があるというのだろう。返答に困っていると再び腕が強く引っ張られて身体が前に傾く。目の前に広がるユーリさんの髪と背中に回された大きな手のひらに驚いた次の瞬間、大きな爆発がわたしたちを襲った。ドンッ、と地面すら揺らしてしまいそうな程の大きな音。目も開けられないような激しい風にユーリさんの服の裾を掴んで必死に耐える。

「っ……アズサ、怪我ないか?」
「は、はい。でも今のは一体――」
「リタ! しっかりしてぇ!」

 今にも泣きそうなエステルちゃんの叫びに弾かれるように背後を振り向くとリタちゃんが地面に横たわっていた。ぞっと背筋に冷たいものが通る。まさか、今の爆発に巻き込まれて……。全身に嫌な汗が溢れ、気管がひゅっと小さく音を鳴らした。動かなきゃ、二人のところに行かなきゃ。リタちゃん、と喉から押し出した声は自分でも分かるくらいに震えていた。立ち上がろうにも足がいう事を聞いてくれなくてその場から一歩も動くことが出来ない。

「……リタちゃ、」
「落ち着けアズサ」
「でも、リタちゃんが」
「お前が焦ったって仕方ないだろ」

 全く持ってユーリさんの言う通りだ。ここでわたしが泣き喚いたって何にもならない。眉に力を込めて唇を噛み締める。叱咤されてもなお動けない自分の身体が恨めしくて仕方がなかった。


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