055


 しばらくするとユーリさんはエステルちゃんたちの様子を見てくると言って部屋へと戻っていった。わたしも行こうと立ち上がろうとしたけれどその顔でエステルに会っても平気か? と指摘されてしまい再びソファーに腰を沈めた。涙は引っ込んでも顔にはまだ名残があるらしい。情けない顔をユーリさんに晒してしまった。顔に熱が集まるのを感じながら俯いていると彼の声が頭上から降ってきた。

「大丈夫だ、置いていったりなんかしねえから安心しろ」

 その言葉を口にした記憶はない。それでも彼にはお見通しだったということなのだろうか。反射的に顔を上げる。ユーリさんは既に背中を剥いていてその表情は分からなかった。
 いつから気づかれていたんだろう。もしかして最初から勘付かれていたのだろうか。わたしの言い訳じみた主張も、我が儘な発言も。すべて彼が分かっていたのだとしたら。咄嗟に撫でられた前髪を押さえる。あれも、わたしが思っていたのとは違う意味だったのかもしれない。かあっと頬が熱くなった。

(……恥ずかし)

 置いていかれたのが寂しかった、なんて。
 宿屋の主人から小さめのタオルを借りて目元に押し当てて腫れが引くのを待っていると突然、天井に轟いた雷のような音。慌ててタオルを降ろして窓に視線を移したけれど、外の天気はとてもじゃないが雷が鳴るほど悪天候には見えなくて。それどころかいつのまにか雨は上がっていて青空すら垣間見える。それなら今の音はなんだったのだろう。密かに首を捻っているとわたしと同じように音に驚いていた人たちの声が耳に入る。

「なんだよ、今の音」
「二階の方から聞こえなかったか?」

 二階……二階って、ユーリさんが二人の様子を見に行ったのもそこだったはず。
 気が付いたら床を蹴っていた。階段を駆け上がって二階を目指す。一番奥の部屋だとユーリさんから聞いていたから部屋の特定は容易に済んだ。勢いのままに扉を開けて身体を滑り込ませる。目に入ったのは瞳を丸くしながらこちらを見つめるユーリさんたちの姿。その中にはリタちゃんもいて無事に目を覚ましたんだと内心ほっと息をついたが、次の瞬間には僅かに焦げ臭いにおいが鼻を掠める。やっぱりこの部屋で何かあったのだ。軽く息を切らしたわたしにエステルちゃんが戸惑いがちにわたしの名前を呼んだ。

「えっと、アズサ?」
「とても大きな音が、二階から聞こえたような気がして、それで慌てて来てみたんですけど……」
「ほら、アズサもびっくりしてるじゃん!」

 ほんの少し怒ったような声色で叫んだのはカロルくんで。状況が飲み込めずにカロルくんを窺うと、彼は口を尖らせながらこちらを向いた。その表情はまだあどけない少年そのものだ。

「ユーリたちひどいんだよ。ボクたちだけ仲間はずれにするんだ」
「仲間はずれ……?」
「誰もそんなこと言ってないだろカロル」
「でもさっきはみんなしてはぐらかしたじゃないか!」

 抗議を続けるカロルくんを嗜めるユーリさん。二人の後ろに立つエステルちゃんはさっきからずっと苦笑いを浮かべているし、リタちゃんに至ってはアホっぽい、といつもの呆れ顔で彼らを見つめている。そこに緊張した雰囲気はなくむしろ穏やかな空気が流れているようにも感じる。たった数日間、一緒にいなかっただけなのに随分とその光景が懐かしい。次第に身体から抜けてゆく緊張。えっと、と言葉を零すと彼らの視線がこちらに向けられた。

「つまり、みなさん無事ってことでいいんですか」
「まあ、そういうことだな」
「そうですか――それなら、良かったです」

 正直、気にならないと言ったら嘘になるけれどユーリさんたちにも何か理由でもあるのだろう。ふっと口元が自然と緩まる。焦げたようなにおいも風に流されて大分薄まってきていた。わたしの杞憂に終わったのならそれでいい。誰にも怪我がなくて本当に良かった。

「それじゃリタも起きたことだし、もう少ししたら移動するぞ」

 ヘリオードに来たのは誤算だったようで、カルボクラムに紅の絆傭兵団(ブラッドアライアンス)を見つけたらカプワトリムに戻る予定だったのだという。そうなると騎士団に捕まってしまったと聞いた時点で一緒にヘリオードに向かおうと誘ってくれたフレンさんは相当頭の回転が速いのだろう。ユーリさんにその話をすると肩を竦めながらあいつはそういうやつなんだ、と苦笑交じりに答えた。
 各々が武器の整備や荷物の確認をしている中、ひとりベッドに腰掛け本を読むリタちゃんの元に向かう。活字に集中している時の彼女に声をかけるには少しばかり勇気がいる(無防備に声をかけて返り討ちにあったカロルくんを何回も見ている)。恐る恐る一度だけ名前を呼ぶとちらりと翡翠色の瞳がわたしを見上げた。内心ほっと安堵の息を吐きながら唇を開く。

「あのね、リタちゃん」
「なに?」
「えっと、その」

 少なくともオレはアズサが足手まといだとは思ったことねぇよ。
 ユーリさんは優しくそんなことを言ってくれたけど、これからも水道魔導器(アクエブラスティア)を探す以上彼らの足を引っ張るような事態にはなりたくない。最低でも自分の身を自分で守れるくらいにはなりたい。そしてその術をわたしは可能性は低くとも持っている。ずっと目を背け続けてきた真実。覚悟を決めなければいけない時がきたのだ。
 いつまでも俯いたまま本題を発しないわたしに痺れを切らしたらしいリタちゃんがはっきりしなさいよ、と催促をかける。それから更にたっぷりの時間をかけてようやく口を開いた。

「えっと、も、もしリタちゃんが良かったらなんだけど……魔術、教えてもらえないかと思って」

 後半の言葉はちゃんと届いていただろうか。目を反らしたままでいると耳にぱたんと本を閉じた音が聞こえた。きゅっと眉を顰めながらリタちゃんの言葉を待つ。沈黙の時間が異様に長く感じた。

「あんた、文字が読めないんだっけ?」
「え? う、うん」
「前にも言ったかもしれないけど魔術は原理さえ理解してしまえば誰でも使うことが出来るわ。武醒魔導器(ボーディブラスティア)が必要不可欠だけどね」

 ちらりと動いたリタちゃんの視線を追いかける。服の上で揺れる輝きを失った赤い珠。魔術を発動させるには武醒魔導器を使いこなす必要がある。何回か光ったような気がした時もあるけれど、ほとんどが無意識なものばかりで。誰のものか分からないものを勝手に使用するのは忍びなかったが、減るものじゃないから平気よ、とリタちゃんに一刀両断されてしまった。

「原理はあたしが教えてあげるからあとは身体に叩き込ませるのみよ。大丈夫、あんたならすぐに使いこなせるようになるわ」
「……ありがとうリタちゃん。お願いします」

 まだ、魔物と戦う覚悟は持っているとは言い難い。けれどカプワノールの一件で気が付いた。このままじゃいけない。守られているだけの状況を享受してはいけないと。リタちゃんに背を向け、思い出したように疼く左腕を押さえ誓う。
 わたしは、この世界で生き残るために戦う術を身につけるのだ。


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