005


 結局、その日は具合が悪くなったとハンクスさんに嘘をついてベッドから出なかった。出られなかったと言ったほうが正解だったかもしれない。きっとあの時のわたしは目も当てられないくらい酷い顔をしていたと思うから。

(ユーリ・ローウェル、ブラスティア、ザーフィアス……)

 幸いなことにシャープペンシルをボロボロの制服から見つけたのでここ数日で耳にした単語をハンクスさんから貰った羊皮紙に書き連ねていく。こちらの言語がわたしの知っているものとは全く異なるものなのは分かっていた。だから仮に見られたとしても理解はされないだろうとは思ったけれど、見られたらそれはそれで怪しまれるかもしれないと思い、念には念ををいれてハンクスさんが眠りについた後にそっとベッドのランプを灯した。
 羊皮紙に書き連ねたいくつもの言葉。ベッドの上で書いたからだいぶミミズ文字になってしまっているが仕方ない。ぐるぐると単語のひとつひとつに丸をつけていき、それを線で結んでゆく。最初は理解できなかった言葉の数々もユーリ・ローウェルという人物が現れたことで徐々に色味を帯びていき今ではくっきりと輪郭を持ち始めていた。
 そうして辿り着いたひとつの答え。だけど、それは到底、信じられるものではなかった。

(…………テイルズオブ、ヴェスペリア)

 どうして、他の誰でもなくわたしだったのだろう。その一言に尽きる。
 はぁ、と盛大なため息をついてわたしは羊皮紙をぐしゃぐしゃに丸めてベッドの隅に放り投げた。こんな可能性考えたくもなかったけれど、でも、否定できないのも事実で。わたしは布団を深く被って身体を丸める。
 テイルズオブヴェスペリアは確かゲームの名前だ。弟がよくやっていたからタイトルだけは覚えている。けれど、わたしはこのゲームを一度もプレイしたことがない。もっと今のわたしの立ち位置に相応しい人物がいたのではないだろうか。例えば、ゲームが得意な弟。例えば、テイルズシリーズが大好きだと言っていた友人。『ユーリ・ローウェル』という主人公の名前でようやくここがゲームの世界だと気づけたわたしが、どうして選ばれてしまったのだろう。

(物語の始まりさえ知らないのに……)

 このゲームがどんなきっかけで始まり、どんな形で終わりを迎えるのか、わたしはその全貌を知らない。魔導器(ブラスティア)だとか魔核(コア)だとか言われてもさっぱり意味が分からない。こんなことになるのなら少しでもゲームに触れておけば良かったと後悔したけれど、そんなのはもう後の祭りでしかない。頭の中では理解していても開いた口からは重たい溜め息が零れた。

(帰りたい)

 もう、何がなんだかさっぱり分からない。いきなり得体の知れない生き物に襲われるし、命辛々で逃げ切ったと思ったら今度は異世界という現実を突きつけられ、挙げ句の果てにそこはゲームの世界だったなんて。いっそのこそ全部夢でした、と言われた方がましなくらいだ。でも腕に鈍く走る痛みがここは現実だと残酷に突きつける。縮こませた身体を更に丸めて自分の世界に閉じこもる。大して寒くもないのに手のひらを擦り合わせてしまうのは先行きの分からない不安からなのだろうか。わたしはじわりと涙が滲んで嗚咽が漏れないように必死に声を押し殺した。
 隣の部屋で眠るハンクスさんを起こさないように、そっとベッドから降りる。できるだけ足音を立てないように素足のまま窓辺へと近づいた。
 電気というものがないこの世界では火の灯ったランプと月明かりだけが闇夜を僅かに照らす。窓に差し込む仄かな明かりだけを頼りに外を覗き込むと幾多の星が夜空にきらめいていた。

(きれい……)

 わたしが住んでいた世界ではなかなか見られない光景だ。高層の建物が並び、空すら窮屈に見えてしまうあの世界ではこんなに星は瞬いていなかった。感動するものはある。それでも、わたしはあの窮屈な空が恋しかった。夜のネオンにかき消されて掠れつつある、決して澄み渡っているとは言えない夜空が。深く深く刻まれた記憶が「ここは違う場所だ」と警鐘を鳴らす。

「……帰りたいよ」

 誰にも言えない、わたしだけの秘密。呟いた言葉は空気に溶けてなくなる。先の見えない未来にまた、溜め息が零れた。


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