058


 人の叫ぶ声が聞こえる。荒っぽく鼻息を鳴らす魔物の呻き声が聞こえる。ほんの数メートル先にいつしかの果てしない恐怖が待ち受けているかと思うと足が動かなかった。
 魔物を退治しに向かったユーリさんたちを見送ってどれくらいの時間が経過しただろう。まだわたしのいる街の中枢部には魔物が一匹もやってきていない。それだけ魔物の規模が少ないということかそれともユーリさんたちが懸命に食い止めてくれているからか――おそらく後者に違いない。あの地響きは相当のものだった。

(情けないなあ)

 建物の影に身を潜めながら小さく唇を噛み締める。リタちゃんから教わった身を護るための魔術も施した。本当だったらユーリさんたちと一緒に魔物を倒しに向かってもいいはずなのにこうして自分だけが安全な場所に隠れている。これじゃあ、何の為に魔術を習ったのか分かったものではない。
 だけど、悔しいと思う反面ほっとしている自分もいて。魔術も覚えたてで特に身体能力が優れている訳でもない。そんな自分が生死が紙一重の空間に放り出されて生き残れるとは到底思えなかった。せめて一対一の状況になれば話は違うのかもしれないが。目はたったのふたつしかなく、前後左右、すべての方向を見渡せるほど器用な人間でもないのだ。

「おかーさーん!」

 つと視線を横に滑らせると小学校低学年だろうか、ひとりの女の子が泣きそうな声でお母さんの名前を呼んでいた。この騒ぎではぐれてしまったのだろう。遠目からでも彼女の瞳が潤み肩を震わせているのが分かった。短いお下げの三つ編みが歩くたびに揺れている。そのまま足がユーリさんたちがいる方向に向かっているのに気づき、思わず身体を動かしていた。袖口から伸びるか細い腕を掴むと目を赤くさせた彼女がわたしを見上げる。

「あっちは危ないよ」
「でも、おかあさんが……!」

 散々我慢していたのだろう、大きな瞳から溢れた涙が頬を伝った。ぐずぐずと鼻を啜る女の子にわたしは口を紡ぐ。きっと見つかる、なんて軽い口は叩けなかった。考えたくはないけれど、この騒動に巻き込まれて負傷したり、命を落としている人だっているだろう。その中にこの子の母親が入っていないと言い切れる保証なんてどこにもない。
 腕を掴んでいた手を滑らせてそっと彼女の肩に乗せる。姿勢を低くして目線と合わせるとぽろぽろと涙を零す瞳がかち合った。混乱した状況の最中、自分も心を落ち着かせるので精一杯だったが出来るだけ優しい声色で尋ねる。

「……お母さんとどこではぐれたか分かる?」

 嗚咽を漏らしながらも女の子はふるふると首を横に振った。途中まで手を繋いでいた、と彼女は声を震わせながら言う。どうやら魔物の襲撃から逃げている途中ではぐれてしまったようだった。
 一緒に探してあげたいのは山々だったが今の状況で下手に動き回って良いものなのだろうか。それなら騒動が収まるまで隠れていた方が安全なのではないだろうか。だけど母親が彼女を探す為にユーリさんたちに戦火に飛び込んでいたとしたら? それならこの子を置いてわたしが探しに行った方がいいのではないだろうか。

(どうする……)
「おかあさん!」

 女の子の視線がわたしの背後に映ったかと思うと顔を華やがせて一気に駆け出す。後ろを振り向くと彼女に向かって走る女性の姿。おそらくあの人が母親なのだろう。そこでほっとしたのもつかの間、彼女たちの背後に迫る黒い物体に目を見張った。咄嗟に体勢を整えて胸に垂れ下がるペンダントを握りしめる。他人に試したことはないけれど躊躇っている暇はなかった。二人と魔物を遮る透明な壁。ただそれだけを強く思い浮かべて詠唱する。

「堅牢なる守護をっ、バリアー!」

 どんっ、と魔物の身体が壁に突っ込んだ。襲ってきたのが一匹だけで本当に良かった。猪のような魔物は一心不乱に壁を突破しようと何度も身体を叩きつける。女の子を抱きしめる母親は魔物の存在に気付いていなかったのだろう、さっきの音に驚いていたようだった。近距離まで迫った魔物を見て我が子をひしと掻き抱きながら小さな叫び声を上げる。

「逃げてください、早く!」

 他人に魔術を施すのが初めてならどれだけ持つのかも分からない。集中力を切らさないようにしながらも声を荒げると母親はすぐに反応した。女の子を抱きかかえてわたしの横を走り去っていった。ありがとうございます、と通り過ぎる瞬間にお礼を言いながら。
 相変わらず魔物は見境なく壁にぶつかってくる。突き破ることが出来ると考えているのだろうか。あの二人がいなくなった今、魔物の標的は自分に向いているのだろう。殺気立った鋭い眼は間違いなくわたしを捉えていた。

(確かに一対一ならって言ったけど……)

 リタちゃんから教わったの魔術はどれも下級のものであくまでも自分の身を護るためだと散々言われた。攻撃は二の次、まずは己の安全を確保しろと。じっとりとペンダントを握りしめた手が汗ばんでいるのが分かる。頭が真っ白になってしまいそうになるのを必死に堪える。今の魔術の効果が切れてしまったら、またあの時のような恐怖が待ち受けているのは直感で分かった。

「まったく、君の行動には本当に驚かされるよ」

 やんわりと声が降って来たかと思ったら目の前に広い背中が現れた。重たそうな青い甲冑を身にまとった彼は肩越しに振り返ると柔和に微笑む。確かカプワノールの時もこうして助けてもらったなと思いながら、わたしは唇を動かして彼の名前を呟いた。

「――フレンさん」


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