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「これ、ヘリオードの街で見たのと同じ現象ね。あの時よりエアルが弱いけど間違いないわ……」

 魔導器(ブラスティア)を使用するのに欠かせないエアルという物体は普段は目に見えなくても一カ所に集中していると肉眼で見ることができるのだという。蛍火のように淡く光るそれを冷静に分析するリタちゃんの隣でわたしはぼんやりと同じものを見つめていた。きっとこの世界独特の物質なのだろうが、つい原理を考えてしまうのは周りを科学に囲まれて生きてきた所以なのだろう。

「アズサ」

 後ろから聞こえたユーリさんの声に肩越しに振り返る。紫黒の前髪から覗く漆黒の瞳はいつもより深い色をしているように見えた。辺りが薄暗いからだろうか。はい、と短く返事をするれば彼の瞳はわたしから一瞬エアルへと向けられた。引き結んだ薄い唇をゆっくりと開いたユーリさんは淡々とした声色で問いかける。おまえは、何か感じないか? と。

「エアルのことですか?」
「そうだ」
「……綺麗だとは、思いますけど」

 質問に含まれた意図が見えず首を傾げる。多分、わたしの答えは彼の質問に沿ってはいなかったのだろう。変化のない表情に疑問と不安が募る。ユーリさんは何か感じるんですか? そう尋ねようとしたが思わぬ来訪者で話は遮断された。サソリのような姿をした魔物が遥か頭上から降ってきたのだ。自分の何倍も大きい体躯にびくりと身体が委縮する。標的は間違いなくわたしたちだ。殺気だった敵を見る限り、戦闘は免れない。すぐにバリアーを張って身の安全を確保する。それからユーリさんたちが武器を手に取ったのは早かった。
 鋭い尾が振り回されるたび誰かに刺さってしまうのではないかとひやひやする。大きな鋏がカロルくんにぶつかりそうになり咄嗟に魔術を発動させると彼の周りを透明な壁が現れた。どうやら集中力を切らさなければ同時に張ることができるらしい。カロルくんにバリアーを施しても自分の壁も消えることはなかった。イメージが大切だと魔術を教えてくれた際のリタちゃんの言葉が蘇る。最後にとどめを刺したのは遠距離から矢を放ったレイヴンさんだった。

「木も、魔物も、絶対、あのエアルのせいだ!」
「ま、また来た!」

 やっとの思いで倒した魔物が今度は一匹だけではなく次々と降ってくる。数を数えるのも億劫になってしまう程に。あっという間に背後からも囲まれてしまい逃げ道がなくなってしまった。それぞれが背中合わせになり何体もの魔物と向き合う。

「ああ、ここで死んでしまうのか。さよなら、世界中の俺のファン」
「世界一の軽薄男、ここに眠るって墓に彫っといてやるからな」
「そんなこと言わずに一緒に生き残ろうぜ、とか言えないの……!?」

 笑えない冗談だ。ペンダントをきゅっと握りしめる。ここにいる魔物全てを相手にするのはユーリさんも流石に避けたいのだろう。きっとエステルちゃんやリタちゃんだって同じ考えだ。ラピードの低い唸り声が聞こえる。わたしたちが劣勢なのは目に見えていた。
 エアルが原因で魔物がこんなに暴れているのなら過剰に溢れているのを止めればいいのだろうが、如何せんその方法が分からない。魔物同士の隙間から覗くそれはさっきまで綺麗だと思っていたのに今ではヘリオードの結界魔導器(シルトブラスティア)と同じように異常な程、真っ赤に染まっていた。

(こわい)

 魔物の狂気に満ちた視線がいくつも刺さってくる。悲鳴を上げないようにするので精一杯だ。胸元で赤く光る武醒魔導器(ボーディブラスティア)を握りしめて必死に声を殺す。一体目の時に発動させた魔術も集中力が途切れ解けてしまっていた。詠唱をするにも魔物との距離が近すぎて時間が足りない。震えそうになる足も地面に縫い付けることでなんとか耐えていた。じわりじわりと魔物が一歩ずつ迫ってくるたびに身体が交代する。やがて誰かの背中がとんと当たったが背後を振り返っている余裕は全くない。魔物から視線を外すことすら出来なかった。
 先に動き出すのはどちらか、そんな緊迫した場面。流れを変えたのはユーリさんたちでも魔物でもなかった。急に背後から眩い光と強風が襲い瞼を閉じる。片手で舞い上がる髪を抑えつつ目を開けるとあんなにいたはずの魔物が一匹残らずいなくなっていて。何が起こったのだろうと瞬きを繰り返しながら辺りを見渡しているとぽつりとエステルちゃんの呟きが耳に届いた。

「誰……?」

 彼女の視線を追いかけて見つけた人物にどくりと心臓が跳ねる。艶のある白い髪は薄暗い森林の中でも輝いていた。不思議な人だとは思っていたけれどまさか、こんなところで会うことになるなんて思ってもみなかった。思い出されるデイドン砦での記憶はあまり気持ちの良いものではない。敵なのか味方なのか、それすらも曖昧だ。
 何も言わず立ち去ろうとするその人にリタちゃんが食い止める。どうやら彼の手に握られた剣がさっきの現象の原因らしい。後ろを振り向くと確かにエアルの塊は元の色を取り戻していた。真っ赤なエアルは影も形も残っていない。

「あ、あの、危ないところをありがとうございました」
「エアルクレーネには近付くな」
「エアルクレーネって何? ここのこと?」
「世界に点在するエアルの源泉、それがエアルクレーネ」

 また、新しい単語が出てきた。ひっそりと頭を抱えていると、不意に真っ赤な瞳がこちらに向けられた。射抜かれるような視線に身体が強張る。勘違いだと思いたかったけれど彼の言葉はまっすぐわたしを捉えていた。

「まだここにいたのか――早くしないと手遅れになるぞ」

 まただ、また、この人は知っているような口ぶりをする。誰にも伝えていないはずなのに。
 ぐっと唇を噛みしめて俯く。ユーリさんたちがいる手前、下手なことを喋って怪しまれるのだけは避けたかった。けれど今回は前のような追及はなくそのまま森林の中へと消えてしまった。ほっとしたのもつかの間、今度はユーリさんやエステルちゃんの視線が集まる。特別怪訝そうにはしてないものの、やはり表情には疑問符が浮かんでいた。変な疑いをかけられないためにもここは知らないふりを貫き通すしかない。幸いにもわたしは"記憶喪失"という肩書がある。

「どういうことだアズサ」
「えっと……前に、デイドン砦で会ったことがあって」
「手遅れって言ってましたけど」
「すみません、わたしにも分からないんです」

 嘘は言ってない、デイドン砦で会ったのも手遅れの意味が分からないことも。ただ、伝えていないことがあるだけだ。すみません、ともう一度呟くとエステルちゃんは謝らないでください、とわたしの手を取った。無理に思い出す必要なんてないんですから、そう言って彼女は柔和な笑みを浮かべる。ちくりと痛む胸。それでも喋る訳にはいかなかった。もし言葉にしてしまったら最後――わたしの居場所はなくなる。
 あんなに降り続いていた雨はいつの間にか止んでいた。


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