006


 あれから数日が経ち、何気なく会話していたらわたしが着ている服を貸してくれたのが"帚星"という宿屋の女将さんだという話をハンクスさんから聞いた。しかも一着だけじゃなくて何着もだ。流石に申し訳なくなって一言お礼が言いたいと宿屋の場所を教えてもらったまでは良かった。それなのに……どうしてこうなってしまったんだろう。
 テーブルを挟んで紫黒の瞳が真っ直ぐにわたしを捉える。探るような視線にこの人にはあまり受け入れられていないようだとぼんやり思った。

「記憶喪失なんだってな」
「みたい、です」
「本当になにも覚えてないのか?」
「……はい」

 水滴を纏ったグラスの中で、からんと氷が音を立てる。喉は渇いてるはずなのになかなかそれに手を伸ばせないのは目の前の人があまり視線をそらしてくれないからだろう。蛇に睨まれた蛙、とまではいかないが多少なりとも緊張しているのは確かだ。ふうん、とユーリさんは軽く返すとようやく目線を外してくれた。内心ほっと息を吐きつつ改めてグラスに手を伸ばす。

(当たり前の反応だろうな)

 わたしは彼らの生活にいきなり転がり込んできた人間。普通なら怪しまれて当然の立場なのに一重にこうして関わってくるのはやはり元怪我人だからなのだろう。傷はほとんど治っているというのに下町の人たちがかけてくれる言葉は優しいものばかりで。その優しさにわたしは少なからず甘受していた。だから、ユーリさんの反応にこんなにびくびくしてしまうのだろう。気付かれない程度に軽く唇を噛む。
 つ、と目を彼から横にスライドさせると椅子の背もたれに立てかけられた剣が映った。普通の生活を送っていればまず見ないであろうそれはこの世界での生き方を物語っているような気がして背筋が震える。目の前の人が鋭利な刃物を持っていても周りの人たちも何も言わないし咎めない。つまりは、それが当たり前の世界なのだろう。心なしか血の気が引いていく感覚を覚えた。

「あんたは、これからどうするんだ」

 ずらしていた視線を元に戻すと再びユーリさんと向かい合う形になる。今度はわたしから、目を反らした。紫黒の瞳から離れてテーブルに置かれたグラスを眺める。これからどうするかなんて全然考えられないのが正直な思いだった。素直に伝えればユーリさんは「そうか」とさっきと同じ口調で答える。

「分からないことが多すぎて、自分でもどうしたら良いのか分からないんです。……ただ、」
「ただ、なんだ?」
「あまり……みなさんに迷惑はかけたくないな、とは思っています」

 それに、自分が関わらない方が物語も難なく進んでくれることだろう。流石にそこまでは言わなかったが、この世界がゲームの中にある以上はストーリーも少なからず関わってくる可能性が高い。その中にイレギュラーな自分がいれば、進むべきものも進まなくなってしまう可能性だってないわけではないのだ。不必要な芽は出来るだけ成長しない内に摘んでおいた方が良い。一番良いのは下町の人たち、特に……目の前のこの人には関わらない方が賢明なのだろう。

「誰が迷惑だなんて言ったんだい?」

 不意に降りかかった声に顔を上げると、そこには一人の女性が仁王立ちで腕を組みこちらを見下ろしていた。眉間には皺が寄っていて、少し怒っているようにも感じられる。お礼を伝えた時にはにこやかな笑みを返されたというのに。店に入った時とはあまりにも異なる彼女の雰囲気に戸惑いを隠しきれなかった。

「お、女将、さん…………?」

 恐る恐る名前を呼ぶとじろりと鋭い眼光を向けられ身体が萎縮する。わたしはなにか、彼女の気に障ることを言ってしまったのだろうか。ちらりと、ユーリさんを覗き見ても彼は黙ったまま頬杖をつきこちらを見ているだけ。傍観者に徹するつもりのようだ。反対にわたしは女将さんがどうしてそんなに難しい表情をしているのか分からずに狼狽えるばかり。そんな状況がしばらく続いてわたしもそろそろ心が折れかかってきた時に、ようやく女将さんは口を開いてくれた。今度は眉を下げて困ったような表情で。

「あのね、アズサ」
「は、い」
「あんな大きな怪我をした女の子を放っておくなんて冷たい人間、この下町にはいないよ。ましてや記憶がないっていうなら尚更さ。これは私たちのお節介なんだからアズサが気にする事じゃないの」

 そうして組んでいた腕を解き、手のひらをわたしの頭に乗せた女将さん。頭を撫でられるなんて久しぶりのことでどう反応したら良いのか分からなくてなされるがままに享受する。ただ、ふわりと包み込まれるようなぬくもりは想像以上に心地が良く、どこか懐かしさも感じられた。

(そんなの、駄目なのに)

 この人たちの優しさに甘えてはいけない。ゲームの中心に混ざり込まないようにしなければストーリーがかわってしまうかもしれないというのに。
 それでも女将さんの手を振り払えないわたしは、やはり甘い人間なのだろう。


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