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 あの後、ユーリさんは本当にフレンさんのところへ行ったのだろうか。今朝、リタちゃんにそっと尋ねてみたけれど、そんなの知らないわよ、と一蹴されてしまった。どうやら彼女たちはユーリさんが夜中に宿屋を出ていったという事実すら知らないらしい。伝える時間が惜しかったのか、それともあえて伝えなかったのか。リタちゃんに訝しい視線を送られてしまったのでそれ以上は何も言わなかったけれど。ただ、同じ部屋にいたカロルくん曰く今朝はベッドで寝ていたらしい。どうやら帰ってきてはいるようで、なんとなくほっとした。

「ここでお別れなんてちょっと残念だな」

 ダングレストと外を繋ぐ一本の長い橋。その手前でカロルくんは寂しげに小さく呟いた。声の先に立っているのはエステルちゃんで桃色の髪を揺らしながら薄く微笑む。けれど眉は下がっていていつものひだまりのような笑みからは程遠い。
 今日、彼女は帝都に戻る。ラゴウは捕まった、ダングレストも落ち着きを取り戻した。タイミングとしては丁度良いのだろう。彼女の後ろには騎士団が馬車を引き連れて待機していた。こうして見るとエステルちゃんがお姫様だというのを自覚させられる。今まで隣に並んで歩いていたのが不思議に感じられるくらいに。

「今度、お城に遊びに来てください」
「ガキんちょほんとに行くわよ」
「え、行っちゃだめなの?」

 きょとりと琥珀色の瞳を瞬かせるカロルくんにリタちゃんが盛大なため息を吐く。帝都の一番高い土地にそびえるあのお城に足を踏み入れるのはそんなに簡単なことではないのだろう。それくらい、エステルちゃんは地位の異なる人間なのだ。会いに行くことが悪いことではないけれど、気軽に会いに行ける相手ではないのも事実なのだ。カロルくんだけがその意味を完全に理解していなくて首を傾げていた。その様子にわたしは苦笑する。

「ラゴウの件はわたしからもお願いしてみます。正当な処罰を下せるように」
「姫様、そのことなんですが……」
「はい?」

 エステルちゃんに声をかけたのは長いローブを身にまとった老人だった。おそらく帝都をとりまとめる貴族の一人なのだろう。何かを感じ取った彼女はわたしたちに背を向け、貴族の元に向かう。ひそひそと小声で話す二人の背中をぼんやりと見つめていた。おそらく、ラゴウのことで間違いないだろう。

「……なんだろね」
「びびって逃げたかな」

 圧倒的に不利な状況の中でも権力で罪を軽くできるような人物だ。内部の人間に手を回して逃げ出すくらいたやすいのかもしれない。でも、それならわざわざ罪を軽くした理由はあるのだろうか。逃げてしまったらそれこそ自分がしてきたことを認めるようなものなのに。
 リタちゃんはこれから別行動でエアルクレーネの調査に向かうらしい。魔導器と関係があるなら調べないわけにはいかないのだろう。調査が終わったら帝都に向かうつもりだというリタちゃんに戻ってきたエステルちゃんが嬉しそうに手を握る。照れ隠しもあったのだろう。軽い挨拶のあと、足早にその場を去ってしまった。

「……カロルはこれからどうするんです?」

 エステルちゃんの質問にカロルくんは表情を曇らせながら軽く俯く。そして、ユーリさんと一緒にギルドを作りたいと小さく呟いた。まだ、返事はもらえていないの? と尋ねるとゆっくり頷いたカロルくん。そっか、と応えるしかなかった。

「アズサはギルドには入らないんです?」

 最初は盗まれた魔核(コア)を泥棒から取り戻すだけだと思っていた。結果的に一連の出来事は街ひとつを巻き込んだ大騒動に発展してしまった。旅を続ける内に広がっていった大きな不安。あの時、彼の手を取った時点でわたしは間違いを犯してしまったのかもしれない。
 だから、もしユーリさんがギルドを始めて旅を続けるというのならーーわたしはその中にいてはいけないのだ。

「……わたしがいても迷惑になっちゃうよ。ほら、戦えないし。それに、もしユーリさんがこのまま旅を続けるなら下町の魔核を届ける人がいなくなっちゃうでしょ?」

 今も下町は深刻な水不足で大変な思いをしているはずだ。早く魔核を届けなければならない。そして今度こそ狂った歯車を元に戻すのだ。ユーリさんが本来のストーリーを進めることができるように。
 やがて貴族の一人がエステルちゃんに控えめに声をかける。どうやら出発する用意が整ったらしい。ちらりとエステルちゃんの様子を伺えば、彼女はやはりまだ迷っているように見えた。整った眉が寂しげに下がっている。

「……行きましょうか、アズサ」
「うん」

 決して二度と会えなくなるという訳ではないが、こうしてみんなで旅をすることはまずなくなる。それがエステルちゃんにとって名残惜しいのだろう。彼女は誰よりも外の世界を見ることを望んでいたから。だからと言って旅を続けたら? と、口にするつもりはない。それはエステルちゃんが決めることなのだから。
 先に馬車に乗り込んだ彼女に続く直前、ふと街中に視線を向ける。見慣れた紫黒の姿は見あたらない。まだ宿屋にいるのだろうか。

(来ない、か)

 たとえば、もしユーリさんがカロルくんと一緒にギルドを始めたとして、そこにエステルちゃんやリタちゃんはいるのだろうか。旅の途中で出会ったレイヴンさんやジュディスさんは? 不意に脳裏に浮かび上がる彼らの姿。その中に自分はいない。

「――カロルくん」
「なに?」
「ユーリさんに先に下町に戻ってますって伝えておいてくれる?」
「……うん」

 これでいい、これで良かったのだ。わたしは下町に戻って待っていればいい。ユーリさんの物語が始まって無事に終わりを迎えるのを祈っていればいいのだ。
 だから――微かに感じた胸の痛みはきっと気のせい。わたしの気のせいなのだ。


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