075


 一体、何が起こったのか。わたしは為す術もなく呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
 上空には翼を広げてダングレストを旋回する巨大な赤い鳥。もはや鳥と呼んでいいのかも分からない。いきなりその魔物が街を襲い始めたのだ。口から火の玉のようなものを吐き、街に襲いかかる。騎士団が応戦していたが相手は空を飛んでいる。なかなか攻撃自体が届かないのが現状だった。

「うわあっ!」

 街と外を繋ぐ橋のそばで魔物の攻撃が落ちる。近くにいた騎士が吹き飛んだのが見えた。次の瞬間、激しい爆風が襲う。とっさに腕で庇ったが耐えられなかったのはわたしの身体の方だった。ふわっと宙に上がる感覚。受け身を取る余裕もない。全身をぶつける覚悟で目をつむっていたが、いつまでもその痛みはやってこない。代わりに耳元で苦しげに呻く声が聞こえてはっと目を開ける。肩越しに黄金色の髪の毛が見えて慌てて身体を起こした。

「フレンさんっ!」

 あんなに綺麗だと思っていた顔にはいくつもの傷ができていて見てるだけで痛々しい。こんなフレンさんの姿を見るのは初めてで言葉を失う。いつも柔らかく微笑みかけてくれる彼とはあまりにかけ離れていた。
 剣を支えて起きあがろうとする彼の身体を慌てて支える。すまない、という掠れた声に必死に首を横に振った。違う、謝るのはわたしの方なのだ。自分でしっかり防御がとれていればフレンさんが庇う必要もなかったのだ。どうしようもなく泣きそうになるのを唇を噛みしめて懸命に耐える。今、泣いたところで現状が良くなるわけではないのだから。

「アズサ……君は逃げるんだ」

 眉間に皺を寄せながら、苦しそうにフレンさんは口を開いた。乱れた前髪の隙間から蒼い瞳が訴えかけてくる。わたしは彼の肩に乗せた手のひらをきゅっと握った。そして髪を乱しながら首を横に振る。現にフレンさんは立っているのもやっとだというのに。

「そんなこと、できません……っ」
「アズサっ!」

 怪鳥と騎士団の応戦が続く中、耳に届いた確かな声。弾かれるように顔を上げればこちらに向かって走ってくるユーリさんの姿が映った。彼の後ろにはカロルくんとラピードも並ぶ。ユーリさんっ、と思わず彼の名前を呼ぶ声は自分で聞いていてもあまりに情けなくて。紫黒の瞳がわたしを見下ろし、微かに細められる。怪我ないか? と視線だけで語られたような気がして静かに頷けば、そのまま彼の意識はフレンさんに向けられた。近くで屈みこむとその苦しげに歪んだ顔を覗き込んだ。

「なんてザマだよ」
「ユーリか、頼む……エステリーゼ様を……」

 エステルちゃんはあの怪鳥がダングレストを襲い始めたと同時に馬車から飛び降りて傷ついた騎士たちの治療に向かってしまった。そして今も攻撃の危険に晒されながらも救護を行っている。周りの騎士たちも目の前の事態に対応するのが精一杯で、彼女を守る余裕がないのが現状だった。辛うじてソディアさんやウィチルさんが魔物に向かって攻撃を放っていたが、決定的なダメージを与えられているようには見えない。
 やがて魔物は上空を大きく一回旋回したかと思ったら、翼を広げながら橋の近くに降り立った。まるで炎のような赤い眼。それが一瞬絡み合った気がしてぞわりと全身が粟立つ。それはこの世界で初めて魔物に襲われた時の感覚とよく似ていた。とっさに目をそらす。心臓が嫌と言うほどうるさかった。

「騎士団長……。どうしてここに」

 フレンさんの声に反応して顔を上げる。そこには赤い装飾が施された甲冑を身にまとった男性が立っていた。前髪から覗いた赤く鋭い目はケーブモックで出会ったあの男の人を彷彿させて身体が強ばったが、よく見れば全くの別人でほっとする。あの時の氷のように冷たい目がなかなか頭から離れない。

「騎士団の精鋭が……! やむを得ない、か……。ヘラクレスで、やつを仕留める!」

 ちりちりと頬を熱風が駆ける。騎士団長が後ろに控えていた部下に指示を送っていると、その横を走っていく影がみっつ。なびく紫黒の髪が黄昏色の光に染められて綺麗だと場違いにも思った。

***

 なんとなくそうなるのではないかと予想はしていた。
 怪鳥は騎士団の決死の砲撃により街を飛び去っていったがその代償は大きかった。騎士団の多くが傷つき、更には街にも瓦礫があちこちに点在している。特に結界とダングレストを繋ぐ橋が一番の損害だろう。半分近くが崩れてしまっていてこれは修復するのに時間がかかりそうだ。

「待つんだ、ユーリ! それにエステリーゼ様も」

 今にも崩れてしまいそうな橋の先で叫ぶフレンさんの背後に立つ。反対側にはユーリさんやエステルちゃん、カロルくん、ラピードがいた。夕日に照らされた彼らの姿に何故か胸がちくりと痛む。その理由を探る前にエステルちゃんの凛とした声がはっきりと耳に届く。帝都には戻れない、と。

「帝都には、ノール港で苦しむ人々の声は届きませんでした。自分から歩み寄らなければなにも得られない……。それをこの旅で知りました。だから! だから旅を続けます!」

 フレンさんはエステルちゃんの決意に驚いているようだったけれども、わたしは意外にも胸にすとんと落ちてきた。彼女がずっと悩んでいたのを知っていたからかもしれない。それこそ相談に乗ったりはまではしなかったけれど。
 そしてユーリさんがフレンさんに下町の魔核(コア)を渡しギルドを始めると言った途端、わたしの疑問は確信へと変わった。できれば違っていてほしい、わたしの思い違いであってほしいと願っていたが。

(きっと、彼らの旅は続く)

 そう、ここはもうゲームのストーリーの中。何が始まりだったのかは分からない。だけど、一緒に魔核泥棒を捕まえにいこうってユーリさんのあの手をとった時からーーわたしは一番望んでいなかった未来を選択をしてしまったのだろう。彼の旅路の邪魔をしてはけないと、あれほど強く誓ったはずなのに。力なく垂れ下がった手のひらをきゅっと握りしめる。
 けれどもここまで来てしまった以上は事実はもう変えられないのだ。不覚とは言え、わたしは物語の中心に立っている。

「アズサ」

 ユーリさんがわたしの名前を呼んだ。遠くからでも分かる綺麗な声。それが今後聞けなくなるのは少しだけ惜しい気がした。瞳を彼に向ける。吸い込まれるような紫黒がまっすぐにこちらを見つめている。
 どうしてあの時、彼の手をとってしまったのだろう。そうすればわたしはきっと今のような感情を抱かなかったはず。ただ静かにその時を待っていられた。けれどその事実はもう変えられない。それなら次に考えなければいけないのはいかにして未来が変わるリスクを抑えるか。

「……わたしは、みなさんの無事を祈っています」

 だからこんな感情は持ってはいけないのだ。
 ――寂しい、なんて。


top