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 心なしか気持ちが軽いような気がする。ずっと胸の奥底に沈んでいたものが取り払われたような。
 翌朝、デズエール大陸に渡る船も手配することができ、幸先の良いスタートとなった。天気も良好。風も穏やか。途中で魔物が船に乗り込んできたりするハプニングもあったけどユーリさんたちの手にかかればあっという間に片づいてしまった。順調な船旅だと、思っていたのに。

「霧が深くなってきたわよ、なんだか」
「不気味……」
「さっきまであんなに天気が良かったのに」

 ふと太陽が陰り雲に覆われたのかと思ったけれど違ったようだ。辺りには薄暗い霧が立ちこめる。いきなりのことに戸惑いが隠せない。カロルくんが不安げに空を見上げていた。

「こういう霧ってのは大体、何かよくないことの前触れだって言うわな」
「や、やめてよ〜」
「余計なこと言うと、それがほんとになっちまうぜ」

 一度言われてしまうと気にしてしまうのが人間の性というもので。つい色々な想像をしてしまう。だってここはゲームの世界。一般的にはあり得ないことでも起きる可能性は十分にある。そう、例えば。

「あっ! 前、前!」

 リタちゃんの大声に顔を上げる。霧の中から突然現れた大きな黒い物体。それが船だと分かったのはわたしたちの乗っていた船が大分近づいてからだった。最悪。つい、心の中で悪態をついてしまう。

「古い船ね。見たこともない型だわ……」

 ぶつかった衝撃で甲板に姿を現したカウフマンさん(この船を貸してくれた大きなギルドの社長さんらしい)は船を見上げぽつりと呟いた。帆はぼろぼろに破れ人の気配も感じられず、濃霧立ちこめる気味悪い難破船。どう足掻いても"あれ"しか考えられない。

「アーセルム号……って、読むのかしら」

 船体に刻み込まれた掠れた文字をジュディスさんが読み上げる。次の瞬間、大きな音と共にタラップが降ろされた。誰もそこにいないはずなのに。まるでこっちにおいで、と呼ばれているようで。リタちゃんが小さく悲鳴を上げる。わたしも彼女の声にびくりと身体を縮こませた。

「人影は見あたらないのに」
「ま、まるで……呼んでるみたい」
「バ、バカなこと言わないで! フィエルティア号出して!」

 カロルくんたち子供組が顔を青くしているのに対してユーリさんたち大人組は表情に変化はない。余裕、というものなのだろうか。わたしは恐怖でさっきから洋服の裾を離せないでいる。

「むーダメじゃの。なぜか駆動魔導器(セロスブラスティア)がうんともすんとも言わないのじゃ」

 船に取り付けられた魔導器をいじりながらパティちゃんが言う。彼女との再会はカプワ・トリムを出発して早々に現れた魔物の口の中。彼女曰く、魔物と遊んでいただけらしいがとてもそんな風には見えなかったが。
 彼女の言葉にリタちゃんが血相を変えて魔導器の調整を始めたけれど、やはり動く気配はないようだ。横目にリタちゃんの顔を覗き込めば、ますます顔色が青くなっている気がする。

「いったい、どうなってるのよ」
「原因は……こいつかもな」
「壊れたにしては、ちょっとタイミング良すぎですもんね」

 アーセルム号に遭遇するまでは普通に駆動魔導器は動いていたのだ。偶然とは少し言い難い。アズサまで怖いこと言わないでよ! と、カロルくんが泣きそうな声を上げる。わたしだって信じたくないけど、現状を考えると認めざるを得ないのだ。

「入ってみない? 面白そうよ。こういうの好きだわ。私」

 アーセルム号を指さしながら突拍子もないことを言い始めたジュディスさん。リタちゃんたちが猛反対する中、ユーリさんは賛成のようで率先して船内に入ると言い出した。これは避けられないと半分諦めかけていたが、カウフマンさんが意義を唱えたのはちょっと意外だった。フィエルティア号にも何人か残してほしいと言い出したのだ。結局、四人がアーセルム号に乗り込むことになった。

「じゃ、行くのはオレと、ラピードは行くよな」
「ワフッ」
「私は行きたいわ。ダメかしら?」
「じゃあ、ジュディスは決まりだな……後は誰だ?」
「ユーリが決めていいんでない?」

 船のお守りという名目でパティちゃんは探索メンバーから外されることになった。残りはエステルちゃん、リタちゃん、カロルくん、レイヴンさん、そして私。ユーリさんの視線が向けられる度に最初の三人は必死に首を横に振っていた。明らかに怖がっている人をつれていく程、ユーリさんも意地悪な性格はしていないだろう。
 ――だから高を括っていた。おそらく、選ばれるのはそれほど怖がっている様子がないレイヴンさんだと勝手に思いこんでいたのだ。

「アズサちゃんアズサちゃん」
「え?」

 隣に立っていたレイヴンさんに手の甲を突つかれ、ぼんやりしていた意識を持ち上げる。若干、気まずそうな表情をしたレイヴンさんはそのままある方向を指さした。ゆっくりと瞳をそちらに向ける。そこにいるのは、確か。
 ぱちりと視線が絡み合った。いたずらっ子のような笑みを浮かべたユーリさんと。思わず頬がひきつる。嗚呼、嫌な予感しかしない。せっかく逃れられると思ったのに。

「アズサ、決定」
「きょ、拒否権は……!」
「ないな」

 頑張ってアズサちゃん。励ますようにレイヴンさんが肩を叩いてくれた。だけど、それなら今すぐわたしと変わって欲しい。
 キィっと木が軋む音。まるで早く乗ってこいとアーセルム号が急かしているようだった。恐る恐る船を見上げる。今からあれに乗り込まなければならない、そう思っただけで背中が粟立つような感覚がした。涙が出そう。

「楽しいわよ、きっと」
(絶対楽しくない……!)

 もし待機組が全員怖がりだといざという時に行動できないとか、考えればそれなりに納得のいく理由があった。当時、冷静な方だったユーリさんとジュディスさんが探索組に入った時点でレイヴンさんが残ることは確定していた。だから、結局残りのメンバーの誰か一人は犠牲にならないといけなかったのだ。それに選ばれたのが偶然わたしだったというだけ。
 決してユーリさんの気まぐれとかじゃなくて、そうなんだと信じたかった。


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