081


 足を一歩踏み出す度にキィっと床が軋む。その度にびくりと肩が竦んだ。
 結局、最後まで断ることができずにアーセルム号の中までついてきてしまった。船内は案の定、ボロボロで蜘蛛の巣だってあちこちで簡単に見つかる。妙に生活感のあるテーブルや酒瓶が余計に気味悪さを強調しているような気がした。

「アズサ、大丈夫? 顔色悪いわよ」

 隣を歩くジュディスさんがひょっこりとわたしの顔を覗き込む。元々、こういった類のものは得意ではないのだ。きっと青ざめた表情をしてるのだろう。ひきつった感覚の残る頬を無理矢理持ち上げる。

「だ、大丈夫です……」

 本当は全然大丈夫じゃない。今でもフィエルティア号に引き返したい気持ちでいっぱいなのだ。でも、船内もそれなりに進んできてしまっていて今更戻るのも気が引ける。なにより戻るなら一人で戻らなければならないとユーリさんに言われてしまったのだ。意地悪な表情をしていたからきっと冗談だとは思いたいけれど。だからひたすら早くこの不気味な空間から脱出することを祈っていた。

「ひっ!」
「あら?」

 いきなり背後から聞こえたバタンっ! という大きな音にびっくりして肩が竦む。気がついたらジュディスさんの滑らかな腕にしがみついていた。

「ご、ごめんなさいっ!」

 はっと気がついた時にはもう遅い。ジュディスさんが微笑みながらわたしを見下ろしていて慌てて手を離す。じわじわ顔に熱が集まっているのが分かった。この瞬間だけは周りが薄暗くて助かったと心の底から思う。きっと今、わたしの顔は赤くなっていることだろう。

「私は構わないんだけど、向こうの彼が面白くなさそうよ」
「え?」

 そう言ってジュディスさんが指を指したのはユーリさんの立つ方向。そのまま彼女の指先を追いかけて視線がぶつかる。ユーリさんはうっすらと目を細めて肩を竦めた。

「ジュディにおいしいところもってかれたな」

 その言葉の意味に気がつくのにしばらく時間がかかった。そうして行き着いたひとつの考えに思考が止まる。それは、つまり……。
 こういう時はなんて言ったら良いのだろう。ユーリさんを怒るべきなのか、それとも別な方法があるのだろうか。でも、もしこちらの思い違いだったらそれはそれで恥ずかしい。口にする言葉が決まらずに唇を開閉させるわたしにユーリさんはくつくつと笑う。その時、ようやく彼は確信犯だと気がついたのだ。

「まあ面白いもの見れたから十分だ」

 ……やっぱり怒った方が良かったのかもしれない。

***

 急に鉄格子が振ってきたり、鏡の中から魔物が飛び出してきたり、泣きたくなるような状況が続いた。けれど、途中から残っていたはずのメンバーが合流していくらか不安は取り除かれた。相変わらずびくびくするわたしたちを見てユーリさんは楽しんでいたけれど。
 それに思わぬ報酬も手に入れた。船内の奥で見つかった魔物を退ける力を持つという澄明の刻晶(クリアシエル)。最初は結界魔導器(シルトブラスティ)のことかと思ったけれど、一番魔導器(ブラスティア)に詳しいリタちゃんですら知らない代物らしい。持ち主の元へ届けたいとエステルちゃんは言っていたが、存在しているかも分からない街にどうやって向かうつもりなのだろうか。

「まったく次々トラブルに巻き込まれて……。ここに残ったのが私じゃなかったら、あんたたち置いてくわよ」
「そりゃ悪かった。今後の教訓にするよ」
「まったくもう……」

 唯一、フィエルティア号で待っていたカウフマンさん。怒ったような口ぶりだったけれど、安堵したようにそっと口元を綻ばせた。不安だったのも仕方がないだろう。だって、結局戦力として残していたメンバーもわたしたちのところに来てしまったのだから。わたしもようやくアーセルム号から抜け出すことができてほっとしていた。
 駆動魔導器(セロスブラスティア)が直ったから戻って来たけれど、結局壊れた原因は分からないらしい。本当にだたの故障だったのか、それとも他に原因があったのか。ちらりとアーセルム号を見上げる。霧がかった船の甲板に黒い人の影が見えたような気がして慌てて目を反らした。あそこには"生きた"人間は誰もいなかった。

「やっぱり、呪いってやつ?」
「そ、そういう話はもう止めませんか……?」

 たとえ怖い話をするだけでも引き寄せられるものがあると聞く。決して信じている訳ではないが、さっき見てしまったものが脳裏にちらつく。そしてつい、考えてしまう。もしあれが本物だとしたら。
 怖い思いをするのはアーセルム号の中だけで十分だ。当時の数々の恐怖体験を思い出しては身体がふるりと震える。

「きっと、アーセルム号の人が澄明の刻晶を誰かに渡したくて、わたしたちを呼んだんですよ」
「あるはずない! 死んだ人間の意志が動くなんて」
「扉は開かなくなる。駆動魔導器は動かなくなる、呪いっぽいよな」
「世界は広い、まだまだ人の知恵ではわからんことは多いんじゃあ」

 パティちゃんの言うとおりだ。知らないことは星の数くらいにたくさんある。自分に置かれた現状や瓜二つの存在、本当に分からないことだらけ。
 駆動魔導器が直ったのなら向かう目的地はただひとつ。低く鈍い音を立てて、フィエルティア号は再び海を進み始める。気が付けば辺りを覆っていた薄暗い霧はすっかり消え去り、太陽がわたしたちを照らす。後ろを振り向けばアーセルム号は海に沈んでしまったかのように姿が見えなくなっていた。


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