085


ノードポリカの象徴とも言える闘技場は今や大混乱の地へと成り果てていた。

「騎士団に告ぐ! ソディアは小隊を指揮し、散った魔物の討伐に当たれ! 残りは私と、観客の護衛だ! 魔物は一匹たりとも逃がすな!」

 人の悲鳴や魔物の唸り声で溢れかえる中、マイクを通じてフレンさんの声が響き渡る。ソディアさんの名前もあったところをみるとフレンさん単独の行動ではなかったようだ。騎士団がいるなら安心だと内心ほっと息をつく。流石に無数に湧く魔物をたった数人で対応するには無理があった。

「行けるかっ、アズサ」

 砂塵から突然飛び出してくる魔物をバリアーが弾き返す。びっくりして棍を強く握りしめながらユーリさんの声が聞こえた辺りを見渡した。平気ですっ、と声を張り上げると茶色い視界の中から黒いシルエットがぼんやりと浮かび上がる。
 さっきエステルちゃんの手から澄明の刻晶(クリアシエル)の入った箱が奪われるのは見ていた。奪っていった人をあんまり信じたくはなかったけど。再び飛び出してきた魔物を今度は聞き慣れた剣の音が弾く。切れ長の紫黒の瞳がこちらを向いてわたしは小さく頷いた。

「街の外へ逃げられたわ」

 闘技場の入り口まで来るとジュディスさんが苦々しい表情を浮かべながら呟いた。一足先に逃げた人物を追いかけていたらしい。まだラピードが追ってくれているようでそれを追いかけることになりそうだ。

「それにしても、どうなってるの? なんで、ラーギィさんが」

 事の発端はリタちゃんの魔術。ザギにより結界魔導器(シルトブラスティア)が破壊されて魔物がたくさん現れ、彼女がいつものように強力な火の魔術を発動させようとしたらいきなり暴発したのだ。魔術に不慣れなわたしならともかく天才魔導士とも呼ばれている彼女が魔術で失敗するなんて珍しい。当人も驚いた様子だった。その時、エステルちゃんの持っていた澄明の刻晶(クリアシエル)が光を帯び始めた。それを突然ラーギィさんが奪って逃げていったのだ。それはもう脱兎のごとく。

「でも、あの温厚そうな、ラーギィさんが」
「箱を奪ってった時のあいつは温厚なんてもんじゃなかったわよ」

 今、思い出してもなかなか忘れられない一瞬だった。分厚い眼鏡の奥に光る瞳は刃物のように鋭く尖っていた。あの人は本当にラーギィさんだったのかと疑ってしまう程に。彼を知っている人は誰もが驚いたに違いない。わたしも同じだった。

「遺構の門(ルーインズゲート)は表向きの顔ってヤツかもねぇ……」

 ぽつりとレイヴンさんが呟いた一言が不思議と胸にすとんと落ちていく。そして不意に蘇ってくる昨日の夜の記憶。ひゅっと冷たい空気が喉を通る。わたしの気のせいだと、思うしかない。

***

 手がかりを見つけてくれたラピードに連れられて辿り着いたのはノードポリカの西に位置する洞窟だった。カロルくん曰く、ここはカドスの喉笛と呼ばれているらしい。強い魔物も潜んでいるというのならとても一人で突破するには難しいだろう。争いなど好みそうにないラーギィさんなら尚更。彼が本性を隠していなければの話だが。
 洞窟の入り口で立ち往生していると足元にいたラピードがワン、と一吠えした。そのままみんなの間をすり抜け洞窟の中へ駆け出してしまった。

「あわわわ……は、はなして、く、ください」

 暗いと思っていた洞窟内は想像より明るい。きっと道端に生えた光る鉱石や植物のお陰なのだろう。ひんやりとした空気が頬を撫でる。
 道を照らす小さな照明を横目に進んでいくと、ラピードが岩陰に向かって懸命に吠えている。やがて何かを咥え、引きずり出してきたのはラーギィさんだった。どうやら隠れてわたしたちが通り過ぎるのを待っていたようだが、流石に獣の嗅覚に勝てるわけがない。

「とにかく、箱を返しなさい!」
「ししし、仕方ないですね」

 ずれた眼鏡を直しながらラーギィさんが小さく指を鳴らす。すると、どこかから飛び出してきたのかわたしたちの前には黒い影が立ちはだかった。見覚えのあるその姿に息を呑む。

「海凶の爪(リヴァイアサンのツメ)!?」

 黒いフードの下から輝く怪しい赤色。ゆらりと力なく揺れる鈍色の刃。目の前の事実を本当なら信じたくはなかった。ラーギィさんはあの黒装束たちと繋がっていたのだ。どうして……、と口から零れた言葉を隣にいたユーリさんは聞き逃さない。剣に手を添えたまま、横目でこちらを向いたのが分かった。

「昨日、言ってた奴らか?」
「……そうです。あの時はこんなにいませんでしたけど」

 いつの間にかラーギィさんの姿は消えていた。再び彼を追いかける為にもまずは海凶の爪を追い払わないといけない。そしてラーギィさんを捕まえて尋ねなければいけない。あなたがわたしを殺そうとしたのか、と。
 ふと胸元に仄かなぬくもりを感じて視線を下に落す。光の正体は胸の真ん中で揺れる雫型のペンダント。この光にわたしは何度も助けられてきた。あの不思議な女性の声は聞こえなかったけれど、これから自分が何をしようとしているのかは分かる。棍を握る手のひらに力が加わる――わたしの意思に関わらず。

「アズサっ、早く下がりなさい!」

 そんなリタちゃんの鋭い声色と共に腕を強く引かれた。眦の上がった翡翠の瞳がこちらを見上げている。いつものわたしなら彼女の言葉に素直に従ったのだろうなと思いながらやんわりと腕を解く。大丈夫、と呟いた唇はわたしが動かしている。

「たぶん――戦えるから」


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