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 山麓部と中央部の中間地点に位置するオアシスの街、マンタイク。水源が近いのか砂漠を歩いていた時よりも幾分すいこむ空気がおいしい気がする。それでも暑いことに変わりはないのだが。何度目か分からない額の汗を手の甲で拭う。これから向かうかもしれない場所はもっと過酷だというのだから少し、不安になる。彼らの負担になることだけは避けたい。
 街一帯が見渡せる広場で立ち止まり、まずは日が落ちるまで自由行動になった。ふと顔を見上げれば水色の空の真ん中に位置する太陽。日が傾くまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。各々が好きな場所へ散っていく中、わたしも情報収集をするためにマンタイクの街へと繰り出す。ちょっとでも蒼の迷宮(アクアラビリンス)のことが掴めればと思っていたのだが。

(全然だめだった……)

 一足先に宿屋に着いたわたしはフロントの椅子に座りぐったりと机に突っ伏せる。街の人に声をかけようにも視線が合った途端、そそくさと逃げられてしまうのだ。絶対にこちらの視線に気が付いているのにも関わらず。かと言って追いかけて話を聞く度胸もなく、結局収穫はゼロ。思わずため息がこぼれてしまう。見事な惨敗っぷりだった。もしかしたら街の外の住人が珍しいのかもしれない。でも、それなら街のあちこちにいた騎士だって立場は同じではないのだろうか。ジュディスさんも前にマンタイクを訪れた時はこんなにいなかったと眉を潜めていたから。

(だからって、あんなにあからさまに逃げなくてもいいと思うんだけどなあ)
「ちょっと、もうバテてんの? そんなんじゃこれから大変よ」

 突然、頭上から声が降ってきてのろのろと顔を上げると翡翠の双眸が呆れたようにわたしを見下ろしていた。リタちゃん、と呼んだ声は思っていたより掠れている。のろのろと上体を起こすと彼女の腕に抱えられた赤い箱が目に留まった。これを奪われたのがきっかけでここまで来たのだった。どうやらリタちゃんは鍵のかかった箱の中身を取り出そうとしているらしい。澄明の刻晶(クリアシエル)を。

「わたしも集合時間までここにいる予定だから何か手伝えることあったら言ってね」

 マンタイクで情報を集めるのはさっきまでの様子を見る限り、難しいだろう。話をかけようにも逃げられてしまうのではどうしようもない。無駄に体力を使うだけだ。闘技場以来ずっとぴりぴりした緊張感が走っていたから少し身体を落ち着かせたいのもあった。ただ、わたしが手伝えることなんてそんなにないもかもしれないけれど。わたしはそっと微笑んだけれど、リタちゃんは難しい顔をしたままこちらを見下ろしていた。

「リタちゃん?」
「あんた、身体に異常とかないの」
「異常? 特に変なところはないけど……」

 ふと自分の手のひらに視線を落として動かしてみる。開いたり閉じたり。痛みはない、違和感も感じない。若干、身体の怠さは感じるけれどもそれは朝からずっと走り回っているからだろう。異常と言われてもピンとこず、疑問符を浮かべながら顔を上げる。リタちゃんの表情は変わらない。

「アズサ――あんた、自覚ないわけ?」

 自覚。彼女の言葉に一瞬、心臓が跳ねる。まっすぐにわたしを見下ろす視線が痛い。何が彼女に引っかかっているのかは分からない故に、返答に困った。下手に言葉を間違えて不信感を持たれるわけにはいかない。でも、逆に聞き返すのもなんだか怖い。結局、わたしが出した答えは黙って頷くだけ。

「……なんでもない。今の忘れて」

 そう言ってリタちゃんは少し離れた場所に座り込み、赤い箱を様々な角度から眺めては弄り始めた。集中し始めた彼女の邪魔をして良いことがないのは知っている。結局、それからユーリさんが彼女の様子を見に来るまでリタちゃんが口を開くことはなかった。

***

 義をもってことを成せ、不義には罰を。
 それが彼らのギルド、凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)の決めた掟だという。たった一人で砂漠の地へエステルちゃんで行かせない。それが凛々の明星の答えだった。

「待ちなさい、エステル! あんたらも何考えてんの? 自然なめてない?」

 太陽は上空をとっくに通り過ぎ、砂漠との境目まで傾いてきている。その頃にはうだるような暑さはなくひんやりとした風が心地良かった。
 エステルちゃんが砂漠に向かうことにリタちゃんは最後まで反対していた。それは現実の過酷さを知っているからこそなのだろう。彼女の主張も十分理解できる。それは生半可なエステルちゃんを危険な場所に向かわせたくないという優しい心からの厳しい言葉なのも。それでも彼らの意志は変わらなかった。

「あんた! 何とか言いなさいよ」

 凛々の明星はもうエステルちゃんについていくつもりでいる。まだリタちゃんは納得がいかないようで眦を釣り上げながらレイヴンさんを睨みつける。彼の用事は砂漠に向かっても叶えることはできない。自分に話が振られるとは思ってなかったのかレイヴンさんはぱちくりと瞳を瞬かせた。考え込むように腕を組み、やがて大きく肩を竦める。

「ここでごねたら俺一人であの街戻んないとダメでしょ? それもめんどくさいのよね」
「……アズサはどうなのよ」
「わたしは……色々な土地へ足を踏み入れてギルドの情報を集めるのが目的ですから」

 エステルちゃんが会おうとしているのは人間ではない、魔物だ。向かおうとしているのは人が住んでいるかもわからない砂漠地帯。だけど求めるものが全く見つからないという保障もないのだ。少しでも可能性があるなら掛けてみたい。それに――ユーリさんがいるなら、なんとなく大丈夫なような気がしたのだ。下町の水道魔導器(アクエブラスティア)だって取り返すことができたのだから。翡翠色の双眸を見つめかえしてそっと口角を持ち上げる。
 結局、折れたのはリタちゃんの方だった。


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