089


 ゆっくりと瞼を持ち上げると一面が青色に染まっていた。透き通るような青い世界。まるで海の中にいるような。

(綺麗)

 ぼんやりとした思考のまま唇を開いて息を吐きだしてみる。こぽり。それはいくつもの気泡となって頭上へと漂っていく。次第に見えなくなっていくそれを眺めて確信する。ここは夢の中なのだと。息を吸っても水が肺に入ってくる様子はない。それなのに目に見える情景は妙にリアルで不思議な感覚に襲われる。

「――アズサ」

 無音だった空間に響く柔らかい声。上に向いていた視線を前に戻して――どきっと心臓が跳ねた。さっきまで誰もいなかったはずなのにそこには一人の少女がわたしの向かいに立っていた。全身は紺色のマントに覆われて、顔もフードに隠れて唇から上はほとんど見えない。だけど耳朶に触れたその声が、何度もわたしを助けてくれた声にとてもよく似ていて。少女は一歩、足を踏み出す。わたしはその場に立ち尽くしたままだった。

「あなたは」
「ずっと、アズサに会いたかった」

 静かに紡がれた声は今にも泣いてしまいそうで。わたしは言葉を発することもできずに彼女が目の前に近づいてくるのを見つめていた。やがてほっそりとした指がわたしの頬に触れる。氷のように冷たいそれに反射的に肩が震えた。同性とは言え、間近で触れられるという状況に少なからず緊張する。仮に夢の中だったとしても。

「あの……っ」
「ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」

 突然、謝罪の言葉を紡いだ彼女の唇は微かに震えていた。わたしの方こそお礼を伝えなければならない立場なのに。あなたに二度も命を救ってもらった。あなたのお陰でわたしは今も生き延びていられるのだと。
 頬を撫でていた指がするりと首筋、鎖骨を撫でて胸の上で止まる。わたしも視線を落とせば彼女の手のひらにペンダントが握られていた。赤く輝く雫型の武醒魔導器(ボーディブラスティア)。これがあるお陰でわたしは魔術を使うことができる。

「お願い。絶対にこれを失くさないで。そうすればあなたを守ってあげられるから」
「それじゃあ、この武醒魔導器はあなたの……?」

 ずっと俯き加減だった顔がゆるりと持ち上げられた。その時初めて彼女が自分とほとんど身長が変わらないことに気が付く。顔を持ち上げた拍子にフードが大きく揺らめき、ほんの一瞬だけ視線が合った。思わず目を見開く。

「約束、ね。――それじゃあ、もう行かないと」

 最後にペンダントをきゅっと握りしめると、彼女は踵を返してしまう。はっと意識を戻した頃には距離がどんどんと広くなってしまっていて慌てて駆け出す。だけど彼女の背中は小さくなっていく一方。それどころかいきなり服が周りの水を吸い込んでしまったかのように重くなり、身体が思うように動かない。手を伸ばすのも辛くて、必死に声を張り上げる。こぽりとたくさんの気泡が零れた。

「待って! あなたは……!」

 ――アズサっ!

 肩を強く掴まれる感覚で目が覚める。霞んだ視界には天井と心配そうにわたしを覗き込むユーリさんの姿。周りが暗いところをみるとまだ夜中なのだろう。窓の向こうにはぽっかりと月が浮かんでいた。ユーリさんは小さく息を吐く。その手はまだわたしの肩に添えられていた。
 どうしてユーリさんがここにいるんだろうと不思議に思ったが、そういえば今日の泊まった部屋は大部屋だったのを思い出す。確かユーリさんのベッドはわたしと一番離れていたような気がするのだが。そんなに寝言が煩かったのだろうか。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「大丈夫か、嫌な夢でも見たのか?」
「ゆめ……」

 あれは夢の中の話。だから気にする必要なんてないのに、脳裏に蘇る光景が邪魔をする。海中の世界、冷たい指先、泣きそうな声。五感が未だに語りかけてくる。本当にただの夢だったのかと。正直、自分でも混乱していた。
 少し起きるか? 小声で尋ねられた問いかけにふるふると首を振る。他の人たちはまだ眠っているのだろう。耳をすませばすやすやと規則正しい寝息が聞こえてくる。特にわたしが寝ているベッドは部屋の一番奥の壁に面している。余計な物音を立てて誰かを起こしてしまうのも申し訳ない。すでにユーリさんは起こしてしまっているのだが。

「すみません、起こしちゃって」
「気にすんな。それより、具合悪いとかじゃないんだな?」
「はい。ちょっと変な夢見ちゃって……それだけです」

 そうか、とユーリさんは微笑む。肩に乗っていた手がわたしの前髪をゆっくりと撫でる。ユーリさんの細長い指が髪の毛をすり抜けるのがくすぐったい。夢の時とは違ってぬくもりを感じる指先が心地よくてわたしは素直にそれを受け入れていた。きっと寝起きで頭がぼーっとしていたのもあったのだろう。次第に瞼は重たくなっていた。

「起きるにはまだ早い。もう少し寝てろ」

 ユーリさんの穏やかな声音が優しく夢の中へと導いていく。再び意識が落ちていくのを感じながら開いた唇はきちんと返事をしていただろうか。
 微睡む視界に映る月明りに照らされたユーリさんの顔は夢で見た景色よりもずっと綺麗だった。


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