090


「ずっと、アズサに会いたかった」

 あの時の彼女の声がいつまでも鮮明に頭の中に残っている。喉の奥からやっとの思いで絞り出したか細い声。青い世界の中で海月のように揺らめく瑠璃色のフードの下から覗く薄い唇は微かに震えていた。
 もっと、あの子に聞きたいことがたくさんあった。どうやって、わたしに語り掛けてくるのか。時々、身体を支配しているのは彼女なのか。何故、武醒魔導器(ボーディブラスティア)を渡してくれたのか。どうして、あなたは――。

「大道芸のお姉ちゃん!」

 無邪気な声を上げてわたしの服の裾を引っ張りながら見上げてくる一人の少女。翌日、砂漠に向かう準備として宿屋の主人からもらった水筒に水を汲みに湖に向かったところで二人の幼い兄妹に出会った。兄のアルフくんと妹のライラちゃん。街に下された外出禁止令を無視したとして騎士に捕まっていたところにたまたま居合わせたのだ。なんでも、フェローの調査の為に執政官の命令で砂漠に連行された両親を探しに行こうとしていたらしい。大の大人でも生き残れるか分からない場所に子供を向かわせるわけにはいかない、と凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)がその仕事を請け負ったのだ。ガラス玉というかわいい報酬を受け取って。

「え……?」

 小さな依頼人と凛々の明星との契約を彼らの後ろで暖かい気持ちで見守っていると不意にライラちゃんと目があった。つぶらな瞳が一度だけ瞬きをしたかと思うと、ぱっと顔を華やがせてわたしのところに駆け寄ってきたのだ。勢いよく懐に飛び込んできたのをなんとか足を踏ん張ることで堪える。そして、大道芸のお姉ちゃん! と嬉しそうにわたしを見上げた。

「アズサどういうこと?」
「わ、わたしにもなにがなんだかさっぱり……」

 大道芸のお姉ちゃん、彼女は確かにそう言った。勿論、身に覚えがあるわけもなく戸惑うばかり。素直に疑問を投げかけてきたのはジュディスさんだったけれど、他の人たちの視線も大して変わらない。みんな一同に疑問符を浮かべた表情でこちらを見つめていた。

「あんた、大道芸なんてやってたの? 初耳なんだけど」
「いいえっ、全く!」
「アズサのこと、知ってるのか?」
「うん。知ってるよ」

 ユーリさんの問いかけにこくりと頷くライラちゃん。その時、服の裾を握る力が強くなったのが分かった。この子はよっぽどその"大道芸のお姉さん"に懐いていたのだろう。それだけに彼女を騙しているようで心苦しい。わたしも決して騙しているつもりはないんだけれども。
 ライラちゃんの話によると、今ほど騎士からの圧力が強くなる前に大道芸を生業とする人たちがマンタイクに来たらしい。閑静だったこの街はちょっとしたお祭り騒ぎになったのだという。その中にわたしとそっくりな少女がいたのだとか。

「お姉ちゃん、またあの踊り見せてくれないの?」
「悪いな。人違いみたいだ」
「ねえ、それってさアズサちゃんが探してる子なんじゃないの? ドンが言ってたでしょ。アズサちゃんそっくりだったって」

 わたしがもう一度だけ旅に出ようと思ったきっかけ。ユーリさんたちと別れた後にドンに呼び出されてそこで自分にそっくりな女の子の話を聞いた。半信半疑な気持ちが正直なところだったから、今まで彼女の話は聞いてこなかった。ギルドの名前しか尋ねていなかったのだ。

「――ねえ、ライラちゃん」

 姿勢を低くして零れ落ちてしまいそうな大きな瞳を見つめる。その中に映る自分の顔は心なしか青ざめているように感じた。どうか違ってほしい、わたしの間違いであってほしい。そんなことを思う時点で既に可能性を否定しきれていないというのに。
 ゆっくりと瞬きをして記憶を呼び起こす。夢は時間が経つと忘れてしまうとよく聞くけれど、今でも鮮明に思い出すことができる。海の中を漂う景色も、頬に触れた指先も、全部覚えている。

「そのお姉ちゃんって、もしかして紺色のマント被ってなかった?」
「うん。お姉ちゃん恥ずかしがり屋さんなんだって。だからいつも顔隠してるって言ってた」

***

「どうしたんです? ユーリ」

 水は確保した。不足していた食料や薬も十分に補充できた。後は砂漠の地に乗り込むだけ。ようやく街の出口にさしかかったところでユーリさんが徐に立ち止まった。エステルちゃんが小首を傾げて綺麗に切りそろえた桃色の髪を揺らす。

「いや、ここの執政官は何を企んでるんだろうってな。フェローを探したりしてさ。ま、帝国としては、姫様を狙う化け物は、排除したいだろうけどな」

 マンタイクの街で執政官が権力を振るうようになったのはつい最近のことだと宿屋の主人から聞いた。ノードポリカのベリウスを捕らえようとする騎士団の余波だと。その影響で外から来た人と話をすることもできなかったらしい。それなら昨日、散々住民に逃げられたのも納得できる。わたしが声をかけていた場所は至る所で帝都の騎士が見張っていたから。

「でも、あいつら、エステルが狙われてることも気づいてないんじゃない?」
「じゃあ、何のためよ」
「あたしが知るわけないでしょ」
「外出禁止というのも分からないわね」

 確かにフェローの捕獲と住民の外出禁止には一貫性は感じない。危険性があるから家に避難するならまだ納得はいくが、それなら外の人たちと言葉を交わしたらいけないという理由にはならない。そもそもノードポリカの統領ベリウスと砂漠の魔物のフェローに関係性はあるのだろうか。考えだしたらきりがない。まずは帰ってきてからというユーリさんの一声で打ち切られた。
 じりじりと太陽が地面を焦がす。これから向かう場所は更に過酷な土地。まずは砂漠を無事に乗り越えることを考えなければ。無意識にわたしの手は胸のペンダントに伸びていた。


top