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 ゆっくりと瞼が持ち上がる。ぼんやりとした視界に映った木目調の天井をどれくらい眺めていただろうか。目に映る状況がおかしいことに気づいて、一気に飛び起きるとスプリングがきしりと鳴ってほんの少しだけ身体が沈む。どうやらベッドの上で眠っていたようだ。
 咄嗟に自分の胸に両手を当てる。手のひらにはっきりと伝わってくる心臓の鼓動。"生きている"という実感をやっと感じてきて自然と安堵の息が零れていた。

(まだ生きてる……)

 砂漠で力尽きた時は正直、死すら覚悟した。喉はからからに乾き、指一本すら動かせず、意識がどんどん遠のいていく感覚は簡単に忘れることはできない。
 何度目か分からない深呼吸をして、辺りをぐるりと見渡してみる。宿屋にしては質素な作りの空間にたくさんのベッドが並べられていた。そして、そこで眠るユーリさんたち。部屋の奥のベッドには夫婦が隣り合って眠っている。一番最初に目を覚ましたのがわたしだったようだ。

(ここは、どこ?)

 意識を失う前の記憶ではこんな建物はひとつもなかった。ここがどこなのか突き止めるのが先決だろう。それくらいなら自分一人でもできるはずだ。みんなが寝静まっているのを確認し、物音を立てないように慎重にベッドから降りて外を目指す。
 ドアノブを回して扉を開ければ目の前に驚くような世界が広がっていた。道端には緑が溢れ、頬を撫でる風も心地よい。しかもつと目線を遠くに向ければ海も見える。とても砂漠地帯にいるとは思えない。砂漠にマンタイク以外の集落があるなんてジュディスさんは言っていただろうか。

「……変わった街」

 思わず言葉が零れていた。マンタイクがあまりにぴりぴりしていた所為か、余計に街が纏うのどかな雰囲気に拍子抜けしてしまう。呆気にとられつつも、意識を戻して街へ踏み出した。川を渡す橋を渡りしばらく街を歩いてみてようやく気が付いたこの街の最大の違和感。

(結界がないんだ……)

 今まで訪れた街には必ずと言っていいほど上空にはガラスのような透明の天井が存在していた。この世界の特徴とも言える結界魔導器(シルトブラスティア)。この街にはそれがないのだ。頭上にはどこまでも隔たりのない空が広がっている。住民たちには不安がないのだろうか。街の外に潜む恐ろしい魔物たちに。
 疑問を感じながらも街中を半分くらいまで進んだ頃のことだった。不意に街の奥にぽつんと建つ屋敷が目に留まる。そこに向かっていくひとつの人影。遠目からでも分かる腰まで流した艶やかな白い髪には見覚えがあった。建物の中に消えていく姿を見つめ、しばらく悩んだけれどその後を追う。

「――よし」

 扉の前に立ち、小さく深呼吸をした。冷徹な赤い瞳と対峙しても自分を保っていられるように。軽くノックをしてからドアノブに手を伸ばす。
 屋敷の中は思っていたよりも広い造りをしていた。その中でいかにも立派そうな椅子や机が並ぶ。扉の音に気が付き、肩越しに振り返る恐ろしい程に整った顔はわたしを見てもぴくりとも動かなかった。緊張で心拍数が上がったのが自分でも分かる。射抜くような視線をなんとか受け止めて乾いた唇を開く。

「あの、聞きたいことがあるんです。ここはどこなんですか? あなたはこの屋敷に住んでいるんですか?」
「……早く本来いるべき場所に帰ったほうが良い。お前の為にも」

 息が、詰まった。質問に全く沿わない回答。だけど、自分の心に深く突き刺さる。きっとこの人には何もかもお見通しなのだ。本当はわたしが何を知りたいのか。

「お前からはエアルを感じない」

 分かってる、そんなこと、わたしが一番良く分かってる。だってわたしは本来この世界に生きる人間ではないのだから。
 自分の手を握りしめて必死に身体の震えを堪える。じんわりと目尻に溜まる雫に気が付いて慌てて顔を下に向けた。ここで現状を嘆いたってなにも変わらないのに――それでも、言葉にせずにはいられなかった。ユーリさんたちには絶対に言えない、今まで誰にも言えなかったこの願いを。

「……帰れるなら帰りたいです。ずっと、望んでいます。この世界に来た時からずっと」

 武器を構えて命のやりとりなんてしない。ただ同じ毎日を過ごしていくだけの平凡でありきたりな日常。今でも不意に蘇ってきては涙が溢れそうになる。懐かしくて恋しくてたまらない。あの世界に――帰りたい。
 ぽろりと目尻に溜まった涙が重力に逆らえずに頬を流れる。一度、それに気が付いてしまえばわたしの涙腺は簡単に崩壊した。何度も服の袖で拭っても視界はすぐに滲んでいく。いきなり泣いてすみません、と言葉にしようにも唇から漏れるのは嗚咽ばかり。これじゃあ、何の為に追いかけてきたのか分からない。

「邪魔するぜ」

 ひくりひくりとひたすら鳴く喉を止められないでいると急に玄関の扉が開いた音がして俯いていた顔を上げる。そこに立っていたのはユーリさんたちで、みんな一同にぽかんとした表情でこちらを見つめていた。落ち着いて考えてみれば扉を開けていきなり泣いてる人間がいたら誰だって驚くに決まっている。だけど、この時のわたしは彼らが無事に目を覚ましたという安堵感でいっぱいだったのだ。
 ユーリさん……、と呟いた声は微かに震えている。目を見開いたまま固まっていたユーリさんは一度だけゆっくりと瞬きをしたかと思うと、すたすたとこちらに近づいてきてわたしを背にデュークさんと向かい合うように立つ。背中越しに見る彼の表情は相変わらず氷のように冷たい。

「どういうことか説明してもらおうか」
「説明することなどなにもない」
「なら、どうしてアズサが泣く必要があるんだ」

 ユーリさんの言葉でようやく自分が泣いていたことを思い出したわたしは慌てて涙を拭う。きっとユーリさんはデュークさんに原因があると思い込んでいるに違いない。確かにきっかけはデュークさんの言葉だったけれど、わたしが泣いたのはもっと別の理由だ。デュークさんは関係ない。
 口にするより先に身体が動いていた。剣に添えられた手が視界に映っていたからかもしれない。背後からユーリさんの腕にぎゅっと自分のそれを絡める。

「アズサ?」
「ユーリさん違うんですっ。この人は何も悪くなくて……」

 二人だけで話していた内容を聞かれてはいけない、ユーリさんには特に。彼の腕にしがみついたまま顔を上げる。眉を潜め何か言いたげにこちらを見下ろすユーリさんを見つめ返す。お願い、何も聞かないで。無意識の内に力がこもっていたらしい。しばらく無言の攻防が続き、やがて諦めた様にユーリさんは溜息を零したのだった。


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