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 細かな装飾が施された椅子に背中を預けてユーリさんたちの会話を静かに見守る。今は余計な口出しをせず傍観者に徹するのが一番だと思った。この屋敷の持ち主のこと、魔核(コア)に似た聖核(アパティア)のこと。やがて話はフェローのことに移り、デュークさんの表情が微かに変化したのをエステルちゃんは見逃さなかった。知っていることがあるなら教えてほしい、と両手を強く握りしめる。彼はエステルちゃんをしばらくの間黙って見つめていた。

「この世界には始祖の隷長(エンテレケイア)が忌み嫌う力の使い手がいる」
「それが、わたし……?」
「その力の使い手を満月の子という」

 満月の子。その単語には聞き覚えがあった。ユーリさんたちのギルド名である凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)。その名前の由来を聞いた時にエステルちゃんがとある伝承を教えてくれたのだ。世界の災厄を救った二人の兄妹。空から世界を見守ることにした兄がギルドの名前にもなっている凛々の明星、そして大地に残った妹が満月の子と呼ばれていると。エステルちゃんは考え込むように長い睫毛に縁取られた瞳を伏せる。

「もしかして……始祖の隷長っていうのはフェローのこと、ですか……?」

 彼女の問いかけにデュークさんは艶やかな髪を揺らしながら頷いた。だが肝心なのは、フェローがダングレストでエステルちゃんを"世界の毒"と言い放ち、彼女を襲った理由だ。フェローがエステルちゃんを満月の子と呼ぶ事実ではない。
 始祖の隷長とは一体、何者なのか。満月の子が嫌われるのは何故なのか。エステルちゃんは矢継ぎ早に聞くが、真意は始祖の隷長しか分からない、とデュークさんはそれ以上のことを口にしようとしなかった。

「やっぱりフェローに会って直接聞くしかないってことですか?」
「フェローに会ったところで、満月の子は消されるだけ。おろかなことはやめるがいい」
「でも……」
「エステル、もうやめとこう」

 リタちゃんがエステルちゃんの腕を引く。彼女は明らかに落胆した表情を見せたが、今のデュークさんから新しい情報を得ることは難しいだろう。苦しげな表情を浮かべるエステルちゃんを横目にそっと彼の様子を伺えば、燃えるような真紅の瞳がこちらを向いたような気がして咄嗟に下を向く。先ほどの二人きりの状態ならともかく、ユーリさんたちがいる環境でわたしの話題を持ち出されるのは絶対に避けたかった。

「立ち去れ。もはやここには用はなかろう」

 デイドン砦で初めてデュークさんと出会った時から感じていた違和感。怖いくらい整った顔立ちに目を見張るほどの真っ白な髪。どこか人間離れした雰囲気を自分だけが感じているものだと思っていた。だが、彼が纏う空気はリタちゃんたちにとっても異様なものだったらしい。何者なのだと問いかける彼女に対してデュークさんは冷たい視線を送る。

「おまえたちに理解できることはない。また理解も求めぬ。去れ。もはや語る事はない」

 その言い方が琴線に触れたのだろう。青筋を浮かべるリタちゃん。今にも噛みつかん勢いの彼女を止めたのはユーリさんだった。彼もこれ以上は時間の無駄だと判断したらしい。リタちゃんは憎らし気にデュークさんを睨みつけたけれど、当の本人は相変わらず表情を崩さなかった。

「行くわよ、アズサ」

 不意にリタちゃんの意識が自分に向けられたことが不思議で猫のように吊り上がった瞳をぼんやりと見上げる。だけど今の息苦しさから逃れられるのなら何でも良かった。こくんとひとつ頷いて椅子から立ち上がる。その時、肩にそっと手が乗せられて肩越しに振り返ればエステルちゃんが不安げにわたしの顔を覗き込んでいた。

「大丈夫ですか」

 きっとわたしが泣いていたことをまだ気にしてくれているのだろう。エステルちゃんは優しい子だから。
 心配をかけまいとうっすら微笑んでみる。ありがとう、と言葉にしようとしたその時、氷のように冷たい声が部屋に響いた。

「皮肉なものだな」

 デュークさんの言葉の真意は分からない。だけどまっすぐにこちらを見つめて放ったそれが自分に向けて放たれたものなのは嫌でも分かった。彼のひとつひとつの言葉が酷く胸にのしかかってくる。きゅっと手のひらを握りしめ、逃げるようにわたしは目を反らした。

***

 屋敷を出れば誰からともなく話し合いが始まり、わたしは後ろからその様子を見つめる。とてもじゃないが冷静に話し合いに参加できるような余裕はなかった。口を開けばうっかり自分の気持ちが吐露してしまいそうな気がして必死に口を閉ざす。ちらちらと視線が刺さっていたのは分かっていたが、それに気づかないふりをしてじっと俯いていた。
 話し合いの結果、砂漠を超えるのは翌日に決まり今日はそのまま自由行動になるらしい。各々が好きなように散っていくのを見てわたしも足を動かす。場所はどこだって構わない。とにかく一人になりたかった。

(頭の中がぐちゃぐちゃだ)

 あてもなく街を彷徨って辿り着いたのは川のほとりだった。ずっと砂漠を歩いていたから無意識の内に水を求めていたのかもしれない。さらさらと流れる川の音を聞きながら膝を抱えて顔を埋める。
 考えてみればここ数日で色々なことが起こりすぎたのだ。命を狙われたり、変な夢を見たり、身に覚えのないことを言われたり。そしてとどめの一撃がさっきの出来事。必死に押しとどめていたものが一気に溢れだして止められなくなった。そして、それをユーリさんたちに見られてしまった。あの場では無理矢理話を流したけれど、そのまま触れないというわけにはいかないだろう。

(どうしよう)
「少しは落ち着いたか」

 砂利を踏みしめる音と一緒に振ってきた声。わたしを何度も助けてくれたそれが誰のものなんて分かり切っていた。のろのろと顔を上げれば案の定、前髪の隙間から綺麗な紫黒の髪が映る。ほっといてほしい、と思うのに何故か安堵している自分がいた。
 ユーリさん、と名前を呼んだ声は予想以上に掠れていて。傍に近づいたユーリさんはわたしと同じ目線まで姿勢を低くすると白く細長い指を伸ばした。指の腹が柔らかく目尻に触れ、ぴくりと肩が震える。ユーリさんの整った眉が真ん中に寄ったのが分かった。

「まだ腫れてるな」

 泣いた跡が消えていなかったのだろう。触れた指先からじんわりと熱が伝わってくる。普段なら振り払ってしまうような状況けれど、今はそれを考えるのも億劫で静かに瞳を閉じた。ユーリさんの姿を見ていたらなんだかまた泣いてしまいそうだったから。

「……時々、自分でも分からなくなるんです」

 ずっと、この世界に迷い込んだのは偶然だと信じていた。わたしは異端者で本来ならばいるはずのない存在で、すでに定められた彼らの物語に干渉してはいけないのだと。だけど、ドンから聞いたわたしとそっくりな人物の話。そして、夢の中に現れた少女。
 ――フードの下に隠れた顔はわたしと全く同じ顔をしていた。

「ユーリさん」

 わたしは何者なのでしょうか。

 そう言いかけた唇をきゅっと引き結ぶ。うっすらと目を開ければ目尻にだけ触れていた指先がするりと頬を撫でた。そのまま手のひら全体で包み込まれる。あえて何も聞かないでくれるユーリさんの優しさが嬉しかった。
 いつかは本当のことを打ち明けないといけない日がくるのかもしれない。そしたら今までの関係性は築けないのかもしれない。それでも今だけはどうか――この人の優しさに甘えたかった。

「もう少しだけ、このままでもいいですか?」
「ああ」
「――ありがとうございます」


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