スタンバイ・シュガー
お互いに目を見て「愛してる」と言わないと出られない部屋。
見間違いなんじゃないかと思った。そんな子ども騙しみたいな条件で出られるわけがないと。でもユーリさんの言った通り、まずは試してみないことには何も始まらない。本当に部屋から出られるのか、やっぱり嘘だったのか。頭の中で何度も羞恥心と葛藤してやっと絞り出した言葉。ユーリさんは真面目に受け止めてくれただろうか? 流石にふざけるなと怒ったりはしないと思うけど……。
わたしはおそるおそるユーリさんの顔を覗き込む。長い髪に隠れてユーリさんの表情は上手く見えない。
「あの、ユーリさん……? うわっ」
突然ぬっとユーリさんの腕が伸びてわたしの肩を掴んだ。そのまま強い力で彼の方に身体を引き寄せられる。貧弱なわたしにはその力に抗うこともできず、そのまま胸板に突っ込んだ。ぐるんと回転する視界。もつれそうになる足をなんとかこらえて顔を上げると目の前に黒曜石のように輝く瞳が飛び込んできて思考が停止する。
「ユ、ユーリさん?」
この状況はなに? 何が起こっているの?
すでに頭の中はパニック寸前だった。肩にあったはずの手はいつの間にか腰に回っていて身動きが取れない。ユーリさんの手のひらのぬくもりが背中に伝わってくるのが服越しに分かった。かろうじて残っていた理性が彼の胸板を押すが、ほぼ無意味に近いなけなしの抵抗と化していた。
やがて片方の手がわたしの顔の輪郭をするりと撫でる。そのまま顎を捉えられ視線が絡み合った。まっすぐにわたしを射抜く瞳。否が応なしにユーリさんと至近距離で顔を見合わせる形となってわたしは身体を固まらせる。そのまま数秒間、わたしたちは黙って見つめ合っていた。
「ーー愛してる」
薄い唇から吐息混じりに囁かれた言葉。ほんの少し掠れた低い声が甘く鼓膜を刺激する。がつん、と鈍器で殴られたような衝撃だった。しかも、微かにユーリさんが眦を細めて微笑むものだからとんでもない。全身の血が駆け巡るような感覚に陥った。
脱出の条件なのだから仕方がなかったとはいえ、これは……刺激が強すぎる。この状況で平常心を保っていられる人なんているのだろうか。あまりの絵面にくらくらと目暈を起こしそうだった。
「ほら、次。アズサの番だ」
「は、はい……」
必要なのはお互いの目を見ることなのだから、わざわざ至近距離である必要などなかったのでは? ……なんて、当時のわたしにはそんな簡単な考えも至らず真っ赤な顔のまま何度も首を縦に振った。とにかく一刻でも早く今の状況から脱したくて必死だったのだ。
ーーこの時、ユーリさんがわたしの反応を見て思いっきり楽しんでたなんて露知らずに。
(言わなきゃ。わたしもあいしてるって……)
「そんなに緊張されるとこっちも緊張するだろ。気楽にいこうぜ」
「そ、そうですよね、すみませんっ……!」
あいしてる。たった五文字、だ。ユーリさんの目をきちんと見てそれだけ言えばこの状態は解放され、更に部屋からも脱出ができる。
顔の輪郭を撫でていた手が再び腰に回される。さぁどうぞとでも言わんばかりに口角を持ち上げるユーリさんをわたしは改めて見つめた。まるで夜空を切り取ったみたいに綺麗な紫がかった黒い瞳。緊張で口から心臓が飛び出してきそうだ。ぐっと唇を噛みしめる。どうか無事にこの部屋から出られたら何もかも忘れてしまっていますように。些細な願い事を胸の中で唱えながら、わたしは微かに震える唇に言葉を乗せた。
「あ、い、してます……」
がちゃん、とどこかで鍵の開く音。弾かれたように音が聞こえた方向に二人で顔を向けるとさっきまでただの白い壁だったはずの空間に扉が出現していた。まさか本当に部屋から出る為の条件だったとは。わたしは手の中でしわくちゃになってしまった紙切れに視線を落とす。扉が現れた場所はお互いに散々調べ尽くした場所だった。わたしはともかくとして、ユーリさんが見つけられなかったなんて少し意外だ。よほど巧妙に隠されていたのだろう。
手元の紙切れをぼんやりと見下ろしながら考えていると腰に微かに違和感を感じてはっと意識を戻す。そういえばずっとユーリさんに抱きしめられていたんだった……! ユーリさんが扉に気が向いているのを確認して急いで身体を後退させる。意識が逸れていたのもあって案外簡単に彼の腕から抜け出すことに成功した。そのままわたしはユーリさんの方を見ずにまっすぐ扉へと向かう。おそらく、確実に、わたしの顔はまだ真っ赤に染まっていると思うから。
「は、早くこんな場所から脱出してエステルちゃんたちと合流しましょう……!」
ユーリさんの返事は聞かないままわたしは足早に扉へと歩いていく。開かれた扉の向こうは眩い光に照らされて何も見えなかったが構わずに進んでいった。あんな恥ずかしい思いをして条件をクリアしたんだから脱出できなきゃ許さない、なんて、どこに向けていいか分からない感情を抱えながらひたすらに足を動かした。
だから、わたしは知らない。背後に立つユーリさんがどんな表情をしていたかなんて。
***
「わーん! ユーリぃ、良かったのじゃー!」
「重たいから離れろパティ……」
聞こえたのはぐずぐずと鼻を啜るパティちゃんの声となんだか苦しそうなユーリさんの声。重たい瞼を持ち上げると見慣れない真っ白な天井が視界に広がる。一瞬ぎくりとしたけれどすぐに横からこちらを心配そうにのぞき込むエステルちゃんが映り込んできてほっとした。落ち着いて周囲を見渡せば、たまたま天井が白かったというだけで辺りは様々な色で溢れている。白で支配された空間はどこにもない。彼女は小さくわたしの名前を呟くと勢いよく身を乗り上げた。ギシリとスプリングが音を鳴らす。そこで初めて自分がベッドで眠っていたことに気が付いた。
「目を覚ましたんですね、アズサ! 体調はどうですか?」
「えっと、痛いところは特にないよ……。大丈夫」
エステルちゃんに背中を支えてもらいながらベッドから上体を起こす。彼女の後ろにはもうひとつベッドが用意されていて、そこではユーリさんが自分のお腹に乗っておいおいと泣いていたパティちゃんを引き剥がしているところだった。その周りにはカロルくんたちもいて苦笑いをしながら二人を見守っている。どうやらわたしたちは今まで意識を失っていたらしい。一体、どういうことなんだろう。
「魔物と戦ってたのは覚えてる? あの時、アズサとユーリが魔物の鱗粉を吸っちゃって倒れたんだよ」
カロルくんが言うにはわたしの背後をとった魔物が鱗粉を勢いよく振りまいて、それがあまりにも広範囲で逃げ切れなかったわたしはあっという間に意識を失って倒れてしまったのだという。ユーリさんはわたしを助けようとして巻き込まれてしまったのだという。キラキラした鱗粉を吸い込んでしまった記憶はなんとなく自分にも残っていた。
けれど、その鱗粉というのが少しばかり厄介なものだったらしい。
「夢……?」
「そう。どっちかって言うと幻って言ったほうが合ってるかもしれないね。下手に外から刺激を与えて無理矢理起こしちゃったりするとかえって幻から出られなくなっちゃうこともあるんだって。だからボクたちなにも手だしできなかったんだけど……良かった、二人ともすぐに目が覚めてくれて」
つまりあの真っ白な空間は魔物が見せた幻だったという訳か。それなら紙の文字が日本語で書かれていたことも何もなかったはずの場所に扉が現れたことにも頷ける。
「ねえねえ、ちなみにアズサちゃんはどんな幻だったのか覚えてる? おっさんちょっと興味あって」
「そうね。私もおじさまに同意見。魔物が見せる幻ってどんなものなのか気になるわ」
「おっ、気が合うねぇジュディスちゃん。で、どう? アズサちゃん」
珍しく意気投合して和気あいあいと話すレイヴンさんとジュディスさんとは真逆にわたしはぴしりと表情を固まらせた。わたしにとってはついさっきまでの記憶だ。残念ながら頭にはしっかりと残っている。どんな場所で、何をしていたのかも……。特に脱出のきっかけなんてとてもじゃないけど話せない。恥ずかしすぎる。
わたしは考え込むようにたっぷりと時間をあけて、曖昧に笑みを浮かべた。
「…………ちょっと、覚えてないですね」
「そうなの、残念。ちなみに青年は? 覚えてたりする?」
何気ないレイヴンさんの問いかけにわたしは息が止まりそうになった。そうだ、わたしがはぐらかしたところでユーリさんがいたんだった。
わたしは慌てて反対のベッドにいるユーリさんに視線を送る。彼はパティちゃんを引きはがすことに夢中だったようで、みんなの視線が集まっていることに気付いてきょとりと瞳を丸くしていた。表向きだけでも平常心を努めたが、内心はハラハラとユーリさんを見守る。
(お願い。忘れてますように……!)
「なんか言ったか? おっさん」
「いや、だから、青年もアズサちゃんと同じ幻をしてたのかなーって思ってさ」
祈るような気持ちでユーリさんを見守る。未だに抱き着こうとするパティちゃんの首根っこを掴みながら彼は小首を傾げた。
「ーーいや、オレも記憶にないな」
そういえば、わたしたちに幻を見せてきたあの魔物は結局どうなったのだろう。リタちゃんに尋ねるとなんとか追い返すことができたらしい。前衛と後衛がひとりずついなくなってしまってカバーが大変だったとため息交じりに言われてしまった。そこは本当に申し訳なかったと思う。誰かをかばいながら戦う大変さをわたしは今までの旅で痛いほど見てきてるから。
わたしたちが目を覚ましたのでエステルちゃんは食料調達に向かうという。身体に不調はないからと自分も同行しようと思ったらベッドサイドに控えていたラピードによって再びベッドに戻されてしまった。どうやらわたしとユーリさんの監視役を任されているようだ。渋々ベッドに潜り込んだわたしは同じく隣のベットでごろりと寝転ぶユーリさんの様子をそっと伺う。
(本当に覚えてないのかな……)
腰に添えられた手のぬくもりも、頬を撫でた指先の感覚も、わたしはまだ全然忘れられそうにないのに。
「……ユーリさん」
「ん? どうした?」
「その……本当に覚えてないんですか? 幻の内容、とか」
忘れていてほしいとあれだけ願ったのに、いざ本当に忘れているとなんだか虚しいと思っている自分もいる。矛盾した気持ちを抱えながらユーリさんを見つめた。ベッドから起き上がっていたユーリさんは少し考え込むように視線をそらす。
そして、わたしを見直してニヤリと笑ったのだ。
「ーーアズサが『愛してる』って言ったことか?」
「っ!? ばっちり覚えてるじゃないですか……!」
やっぱりユーリさんも忘れてなかったんだ。わたしは咄嗟にシーツを手繰り寄せて顔を隠す。途端に脳裏に記憶が蘇ってきてわたしの顔はぼんっと赤くなった。堪らずベッドで身悶えるわたしにユーリさんがじわじわと湧きあがってくる羞恥心を更に煽る。
「悪くない愛の告白だったと思うぞ」
「お願いですから忘れてください……!」
それから買い物を終えたエステルちゃんたちが戻ってくるまでからかわれ続けたのは言うまでもない。