感情エラー、修復不可能


 それはまだ、私が生徒会に深く関わっていなかった頃の話。初恋を知る少し前の話。


 軽くノックをしてから部室の扉を静かに開ける。そっと顔を覗き込ませるが人の気配は感じない。電気もついていないところを見るに私が一番乗りだったようだ。
 もともと写真が趣味だった私を写真部に誘ってくれた友人は今日は家の用事があって部活に来られないらしい。わざわざ私の教室まで来て連絡しにきてくれたのは昼休みのことだった。一年の部員がいないからと気にかけてくれたらしいが、受験を控えたふたつ上の先輩たちも最近は勉強が本格的に忙しいらしく打ち合わせが終わると早々に部室を出て行ってしまう。私も部室に入り浸る予定はなかったから気にしなくていいよ、と伝えていた。

(今日は終わったら図書室に行こう)

 ちょうど返却期日が迫った本も持ってきている。そのまま課題でもしていよう。
 頭の中で今日提示された課題はなんだっただろうかと記憶を引っ張り出していると、不意にぱたぱたと賑やかに廊下を駆ける靴音が聞こえて視線を移す。どちらかと言えば校舎の外れに位置するこの場所で誰かが通ること自体珍しい。てっきり先輩の誰かだと思っていたのだが、そこにいたのは予想とは違う人物だった。ものすごい勢いでこっちに向かって走ってくる赤髪の男子生徒の姿に私はぎょっと目を見開く。

「なあ! ちょっと隠れさせて!」

 ふわり。肩の位置で揺れる髪はまるで紅葉のように鮮やかな朱色をしている。透き通った翡翠色の瞳に白い肌、薄い桃色の唇。一度見たらなかなか忘れられないだろう。制服のネクタイに視線を落とせば私と同じ学年を示す緑色。同学年にこんな端正な顔立ちの生徒がいたなんて知らなかった。
 ずっと走って来たのか頬をほんのりと上気させている。状況はさっぱり分からなかったがきっと何か事情があるのだろう。咄嗟にぱっと身体を扉の前から移ると彼は部室に逃げ込んでいった。

「もしガイが来ても誰もいないって伝えて!」
(ガイ先生……?)
「立花っ! ちょうどいいところに」

 部室に駆け込んだ男子生徒の声と背後から声がかかったのはほとんど同時のことだった。びくりと肩を反応させながら振り返ると背後の階段からガイ先生がのぼってくるところで。風の噂で放課後にガイ先生がよく校内を走り回っていると耳にしたことはあったけれど、実際に見たのは初めてだった。髪を乱して肩で大きく息をするガイ先生。「大丈夫ですか……?」とおそるおそる顔を覗き込むと「なんとか、な」と苦い笑みを浮かべながら呼吸を整える。

「それで……ガイ先生、どうしたんですか?」
「今ここを男子生徒が通らなかったか? 赤毛の生徒。ルークって名前なんだが」
(ルーク?)

 名前は知らないけれど、赤毛の生徒には心当たりがある。ついさっき写真部の部室に駆け込んだ男性生徒。だけど、「誰もいないと伝えて」と言われてしまっている手前、素直に喋るのも気が引けた。何か事情でもあったのかもしれないし。
 悩みに悩んで、私は曖昧に笑った。

「――いいえ、見てないですね」
「そうか、悪かったな引き留めて。もしルークを見かけたら言っておいてくれ、俺が探してたって」
「分かりました」

 「部活、頑張れよ」と爽やかな笑顔を残してガイ先生は再び廊下を駆け抜けていく。曲がり角へ消えていく姿を確認してから部室の中をそっと覗き込んだ。「行ったよ、ガイ先生」と小さな声で伝えると書類がしまってある棚の影から男子生徒がひょっこりと顔を覗かせた。「ほんとか?」と不安げに問いかけてくる彼に首を縦に振る。安堵したように息を吐く動きに合わせて特徴的な赤毛が揺れた。

「助かったあ……ありがとな」
「ううん。大丈夫だけど、何かあったの……? ガイ先生、すごく探してたみたいだったけど」
「数学の補講。ガイが無理矢理参加させようとするからさ」

 ガイ先生の授業では毎週小テストがあり、赤点を採ると放課後に補講を受けなければならない。彼は赤点こそ採っていなかったもののそれに近い点数ばかりだったらしくいよいよガイ先生から招集がかかったらしい。だが、赤点ではないのなら補講を受ける必要はないと彼は主張し逃げている最中だったのだという。なるほど、それならガイ先生が探し回っているのも納得だ。
 ガイ先生が消えていった廊下を見つめていると不意に声を掛けられて顔を上げる。こちらに向かって歩いてきた彼は私の制服のネクタイと自分のそれを交互に指さしながら「何組?」と小首を傾げた。どうやら私たちが同学年だということに気が付いたらしい。私が自分の組を伝えると彼は少し考え込むように首を捻った。

「一組? ああ、もしかしてアニスやティアとよく一緒にいる?」
「うん、そうだね」
「やっぱり! どこかで見たことがあると思った!」

 共通の知り合いがいたことで親近感が湧いたらしい。彼はより一層、整った顔を綻ばせた。

「オレはルーク・フォン・ファブレ。よろしくな」


***


「あ、アッシュとナタリアだ」

 午前の最後の授業は移動教室だった。必要な教科書とノートを抱え廊下を歩いていると、隣に並んだアニスが立ち止まり声を上げる。反対側に並んだティアと一緒に彼女の視線を追いかければ、教室の窓際の席で談笑している二人の姿を見つけた。次の授業の課題でも見せ合っているのだろうか。アッシュくんが指さす先をナタリアちゃんが真剣に見つめている。

「相変わらず仲が良いわよね、あの二人」

 ティアの言葉にきゅっと心臓が締め付けられる感覚がした。痛みをごまかすように教科書を抱きしめる力を強める。

「うーん、アニスちゃんの予想ではそろそろくっついてもいい頃なんだけどなー」
「タイミングがあるんでしょう。私たちがとやかく言うことではないと思うけど」

 二人の関係はアニスから聞いていた。幼い頃から付き合いのある幼馴染だと。しかし、入学当初から他人の視線を集めていた二人は生徒会のメンバーに選出されたことによりますます注目を集めることになった。その中には勿論恋愛絡みの話も含まれていたのだが、未だに二人の口からはっきりと聞いたことはない。それでも二人の間に流れる空気は幼馴染のそれとは違う。
 その時、ノートからぱっと顔を上げたナタリアちゃんがはにかむように笑った。可憐で可愛らしい横顔。それを見たアッシュくんが唇の端を静かに持ち上げる。
 頭の中でがらがらと何かが崩れる音がした。

「ねえ、柚希もそう思わない?」

 知っている。アッシュくんがあんなに柔らかい笑みを見せるのは彼女だけなのだと。
 今まで何度繰り返してきただろう。何度、あの表情を見て勝手に傷ついてきただろう。彼がナタリアちゃんが好きなのは分かっているはずなのに。胸が締め付けられて息が苦しい。だけど、それを口にすることはできない。

「……そうだね」

 好き。何回その言葉を呟きそうになったことだろう。そして、何回心の中で押し潰したことか。つぎはぎだらけの言葉。こんなにぐちゃぐちゃに入り乱れてしまったらきっと綺麗なものではなくなってしまっている。とても彼に伝えられるものではない。
 もしも、私に感情がなければ少しはこの言葉も彼に綺麗なまま伝えられたのだろうか。好きだとアッシュくんに言えたのだろうか。

「そろそろ行こう。授業遅れちゃうよ」

 私はアニスとティアに笑いかける。大丈夫、二人は私の想いに気づいていない。再び歩き出した二人の背中を見つめ、私は溜め込んでいた息をそっと吐き出した。
 僅かに湿気を含んだ風が頬を撫でる。吐き出した息が空気と混ざり、雑踏の廊下へと溶け合って消えた。
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